第一九五話 きざし(一七)
尋道の目の前にはコーヒーカップがある。頼んでもいないのに出てきた。腕組みをした孝子は真っ向から尋道を見据えている。口元には不敵な笑みが浮かんでいた。長い話になりそうな気配があった。
「郷本君」
「はい」
「私、前に、岡宮鏡子の名前で一曲、歌ったじゃないですか」
映画『昨日達』の主題歌に採用された『逆上がりのできた日』だ。
「ええ。また歌うんですか?」
「いえ。今回は、私が歌うわけじゃないんだけど、また、岡宮として活動する羽目になって」
孝子が語ったのはアーティ・ミューアの歌手活動にまつわる一件である。エディの存念に始まり、孝子が剣崎龍雅と組んで活動に参加する、と決まったところまで余さず披露してきた。
「二足のわらじですか。アートならどちらとも当てそうですね」
「はい。あの人のアメリカでの人気って、すごいらしくて。多分、当たるんじゃないかな」
「可能性は高いでしょうね」
「当たり具合によっては、岡宮の上がりでカラーズにもゆとりが出ると思う。正直、気乗りはしてなかったんだけど、どうせやらなきゃいけないことなら、せめて一石二鳥を狙いたいよね。カラーズのためにやろうか」
「それは、いけません」
まさしく、いけない。カラーズの前途は洋々としているのだ。その状況下で孝子に重荷を背負わせるわけにはいかなかった。美幸の存在を隠蔽しようと吹いたのが原因だ。眉一つ動かさない無表情の下では、尋道、慌てていた。
「やろうか、って言ったでしょう」
ところが、孝子、ずいときた。もしかして勧誘だったのか。
「……僕も、ですか?」
「そう。芸がない、って自称してたけど、そんなことない。カラーズで一番、目端の利く人は郷本君。その力で岡宮鏡子をマネジメントして」
「畑違いですよ。音楽のことは、さっぱり」
「マネジメント」
強い口調だった。音楽には関与せず、岡宮鏡子を売るほうに専念しろ、と言いたいのか。
「……気乗りしてないんじゃ?」
「してない。するわけない」
どうもわからなかった。鼻をつまんで岡宮鏡子を演じる、わけでもないらしい。孝子は自分に何を求めているのだ……?
「静ちゃんたちにやってるみたいに岡宮鏡子にもして」
ようやくわかった、気がした。
「……お二人の第一義は北崎さんに勝つことで、それと関係ない事柄は、極力、遠ざけるようにしていますが、これ、ですか?」
「それ」
「神宮寺さんの、音楽における第一義は、なんでしょう?」
「趣味」
即答だった。とくれば、第一義に沿うマネジメントを心掛ければいい。
「わかりました。やりましょう」
「あっさり。ちょっと、らしくなく悩んでるのかと思ってた」
「それはそれ、です。僕にできそうなことだったら、お手伝いさせていただきますよ。無理だ、と思ったら、お断りしますけど。クリエーティブな作業には向いていなかったようですが、今、伺った内容なら、多分、得意です」
「でしょう」
気を遣ってくれたのだろう。目端の利く男に厄介払いをしたかった、という思惑もあったかもしれない。いずれにせよ、尋道は自分の能力の及ぶ限りで、孝子の申し出に取り組むだけだ。
「では、早速ですが、神宮寺さんのご意向を聞かせてください。マネジメントの方針を決めましょう」
応じて、孝子は始めたが、なかなかにひどい。ほぼ何もやりたくない、と言っているに等しかった。
「……『逆上がりのできた日』のときも、こんな感じだったんですか?」
「うん」
「よく通りましたね」
「だって、剣崎さんとの間に相良先生が入って、こちらに有利な契約を結んでくれたもの」
相良一能は神宮寺家の顧問弁護士だ。尋道も静とエンジェルスとの契約に一役買った彼の名を知っていた。
「詳しく聞かせてください。場合によっては、相良先生に先方との折衝をお願いしてもいいかもしれません」
尋道は孝子に続きを促した。
「……今回は、相良先生でも、同じようにはいかないと思うよ。あのときは剣崎さんが、すごく切羽詰まってた、っていうのもあったし」
「完全に同じ契約は難しくても、相手の動きに掣肘を加えるぐらいはできるでしょう」
「そうかもしれないけど……。岡宮鏡子というか、音楽には、おばさまでも関わってほしくないの。言ったでしょう、趣味、って。前は未成年で、親権者の許可が必要だったから、仕方なくお話ししたけど」
「関わらないですよ」
「相良先生は神宮寺さんのお宅の顧問弁護士だよ」
「弁護士には守秘義務があるはずです。依頼人が神宮寺さんなら、おばさんであっても第三者には変わりないと思うのですが」
孝子がけたたましく笑いだした。
「うん。さすが郷本君。こういう細かいことをやらせたら斎藤さんも目じゃない。郷本君に任せた。お願いします」
勢いよく下げられた形のいい頭部に向かって尋道は会釈を返した。うまく事を運べば、これもカラーズへの貢献になるだろう。思っていた形とは異なったが、しょせん、目立つ役どころは柄ではなかったのだ。目立たないけど大事な役割を担う、というみさとの評価を地でいくのが彼の性にも合っている。やってみよう、だ。




