第一九一話 きざし(一三)
孝子に遅れること三〇分ほどで、麻弥は海の見える丘の住まいを出た。徒歩と電車で向かったのは、舞浜市小磯区の小磯駅だ。小磯駅は小磯区中部の海岸沿いにある乗換駅である。複数の電車、バスの路線を抱えて、この辺りの、ちょっとした要衝、といえる。駅と一体のターミナルビルは豪勢であり、周辺のにぎわいも、なかなかのものだった。
そんな一角に、ひときわ目立つ建造物がある。全面を青みがかったガラスで覆った偉容のビルだ。ビルの所有者を「神鶴会」という。「神鶴会」は神宮寺美幸が代表を務める神宮寺家の資産管理会社名だ。
麻弥は青ガラスビルの前に立った。ビルの一階と二階を占めるのは「fleur」というヘアサロンで、この「fleur」こそ麻弥が孝子に照会された山下美容師の店だった。麻弥が髪を伸ばし始めて、じきに一年。ベリーショートだった髪は、今、ショートの領域を通過中である。目標であるミディアムには、少なくともまだ一年は必要だろうか。道半ばなり、といえた。
さて、麻弥だが、ヘアオイルを買いに行く、と孝子に話していたにもかかわらず、「fleur」の店内に入らず、青ガラスビルの前でたたずんでいる。実は麻弥、ここで人待ちだった。相手は、神宮寺美幸だ。内々で会いたい、なお他言無用のこと。このようなメッセージが送られてきた。あえての表現は、孝子には秘密で、という意味だろう。となると、カラーズ絡みの話題と考えてよさそうだ。内情を問われるのだろうか。それなら、自分より斎藤みさとが適任だと思うが。
「おう」
声に、見ると、これは果たして偶然なのか。斎藤みさとだった。初夏の陽気の中ではあるが、みさとはグレーのスーツに肩掛けのビジネスバッグで隙なくまとめている。
「……お前、その格好は会社訪問か?」
「いや。日曜に会社訪問もないだろ。人待ち」
「こんにちは」
さらに声がした。郷本尋道だった。ホワイトのシャツにチノパンツというラフないでたちだ。この男の服装には必ずといっていいぐらいにベージュが入っている、などと麻弥は思った。
「この顔ぶれは、偶然……?」
「でしょう。斎藤さんは日曜なのに会社訪問か何かですか?」
「正村にも言われたよ。違う。待ち合わせ。郷さんは?」
「僕もです。しかし、小磯駅の外って栄えてたんですね。いつもは乗り換えで通過するだけなので、知りませんでしたよ」
鶴ヶ丘から舞浜大学千鶴キャンパスに向かう場合は、この小磯駅での乗り換えとなる。
「私も通過するだけだったね。……ところで、正村は、なんでここに?」
「いや。ここの店でいつも髪を見てもらってる」
「ああ。ここか。神宮寺に紹介してもらった、っていうのは。しかし、すごいビルだね。じゃあ、お構いなく。行っていいよ」
「ん……」
と言われても、だ。この顔ぶれから判断するに、カラーズに関することで呼び出されたのだろう。おそらく、全員がそう思っているに違いない。妙に話が弾まず、互いの様子をうかがうような時間が過ぎていく。
「……正村、本当は美容院に来たんじゃないでしょ?」
「……なんで」
「入ろうとしないじゃん。あれだろ。郷さんもだけど、本当は神宮寺のお母さんに呼ばれたんだろ」
「ああ……。やっぱりか」
口火を切ったみさとに、麻弥は応じた。しかし、尋道は無言だ。
「……郷さん?」
不意に尋道が頭を下げる。待ち合わせに指定されていたのは午前一一時だ。その五分前になって神宮寺美幸が現れた。ラベンダーピンクのロングスカートにアイボリーのサマーニットが、なんとも派手やかだった。これだけのものをまとえるのは、自負の表れだろう。みさとなど思わず、おおお、と声を漏らしている。これで、三人の倍ぐらいは年齢がいっているはずなのに、である。
「三人とも、お待たせ」
「ご無沙汰してます。おい、郷さん。やっぱり郷さんもそうだったんじゃん。無視するなよ」
「他言無用と指定されていませんでしたか?」
うっ、と麻弥とみさとが同時にうめいた。
「おばさん。この二人、他言無用を破ってました」
「あら」
「おい! ちくるなってばよ!」
フフフ、と美幸が笑う。
「後で詳しく聞きましょう。じゃあ、上に行こうか」
青ガラスビルの最上階に三人は導かれた。エレベーターを出ると「みやこ茶房」ののれんだ。
「ここは、お抹茶とかいただけるところですか?」
ホールに漂う匂いに鼻をひくつかせたみさとが言った。
「うん。でも、安心して。気軽に楽しめるのがコンセプトよ」
美幸の言葉どおり、のれんをくぐった店内で通されたのは、普通のテーブル席だった。
「茶室もあるんだけど、それは今度ね。納倉さん。お茶とお菓子、お願いね。……あ。私は」
「わかってます」
納倉というらしい。すみれ色の着物に身を包んだ案内の女性が応えて、下がっていった。
「さあ。始めましょうか」
招集は、やはりカラーズについてだった。表向きは一任の姿勢を貫いているが、やはり気になるという。大まかな報告は、孝子も上げてくるものの、数字がない。数字が知りたい、という美幸の要求だった。
「あの子のことだし、少々の赤字でも気にせずやってそうな気がするんだけど。どう?」
「おっしゃるとおりですが、大丈夫です。あいつは気にしなくても、私が気にしてます。現状、赤には至ってません」
言いつつ、みさとは持参のビジネスバッグからタブレットを取り出した。この展開を予想した上での身だしなみと持参のもの、だったらしい。
「正村。席、替わってもらっていい?」
上座に美幸、隣に麻弥という席次になっていたが、みさとの申し出で入れ替わる。タブレットを用いた数字の説明が始まった。
熱の入ったやりとりである。切り込む美幸に、受けて立つみさと。攻防はよどみなく続く。二人が何を話しているのか判然としない麻弥は、ちらりと隣を見た。気付いた尋道は首を横に振ってみせた。麻弥はうなずいた。尋道もよくわかっていないようで、一安心なのである。




