第一九〇話 きざし(一二)
おーい、と言いながら麻弥は、孝子の部屋の扉をたたいた。のっそりと出てきた孝子は、いつもどおりの手抜きファッションだが、ぱりっとしたパステルブルーのジャケットを羽織ってごまかしている。
「あれ。どっか行くのか?」
「そっちこそ、おめかししてる」
言われた麻弥のファッションは、デニムのワイドパンツに襟のフリルが小じゃれたブラウスという、よそ行きだった。
「うん。ちょっと出るんだけど、お前は?」
「私も。じゃあ、車は置いていこうか?」
「いいよ。お前、使うんだろ? 私は山下さんのところだから電車で行くよ。そろそろヘアオイルが終わりそうで」
「私は青い、平べったい車で迎えに来てもらうこともできるし、譲るよ?」
麻弥は噴き出した。孝子は片頬に笑みだ。
「……車のことは、もう知ってるはずなのに、なかなか仕掛けてこないんで警戒してたら、ここか」
「未成年がいると、どんな色仕掛けを弄して平べったい車を買わせたのか、聞けないでしょう?」
春菜は大学代表女子バスケットボールチームの合宿に参加中である。
「色仕掛け、って……」
「あの車、どう考えても、剣崎さん、乗りにくそうだし。それを、あえて買ったってことは、麻弥ちゃんの色仕掛けが炸裂したとしか思えないじゃない。あーあ。純情な中年を手玉にとって。悪い女」
「剣崎さんは中年じゃない」
「あ。色仕掛けのほうは否定しなかった」
けけけ、と笑った孝子に麻弥は組み付いた。
「離せ」
「せっかんしてやる」
しばし、がっぷり四つでもみ合っていた二人は、やがてどちらからともなくの失笑で取組を終了した。
「そういうわけで、剣崎さんのところに行ってくるよ。待たせるのも悪いんで、君はお留守番ね」
「音楽の話……?」
「エディさんから連絡があった」
「お。アーティが歌手をやるの、決まったのか?」
「決まった。で、一緒にやろう、って。なんといっても、静ちゃんがお世話になってる人たちだし。……あと、私、最初に岡宮鏡子の照会があったとき、人ごとみたいに剣崎さんに放り投げたでしょう? それもあって、断りにくい。でも、一人じゃ何もできないし。電話で了解はいただいたけど、改めてお願いしに行ってくるよ」
「……エディさん、剣崎さんじゃなくて、まず、お前に話を持ってきたの?」
しばしの思案を経て麻弥が言った。アーティの歌手活動をサポートする音楽家として剣崎を紹介した、と聞いた記憶があるのだ。
「そう。高校の先輩で姉の友人、とかいうやつがばれて、話が私に戻ってきた」
アーティ・ミューアの歌手活動について、エディと話し込んでいた静が「高校の先輩にして姉の友人の岡宮鏡子」なる人物を持ち出したのが、全ての発端となった。岡宮鏡子は、すなわち孝子だ。岡宮鏡子を、高校の先輩にして姉の友人、とかたったのは、彼女の正体を明かすことをはばかった静の詭弁だった。
これを受けて、エディより岡宮鏡子の問い合わせを受けた孝子は、うかつな義妹に舌打ちしつつ、華麗なさばきを見せた。親友の恋人であり、岡宮鏡子のプロデューサーでもある剣崎龍雅を推薦したのだ。岡宮は剣崎の楽器のようなもの、コンタクトを取るべきは剣崎、と説明し、エディの関心を剣崎に移してのけて、これで済んだはずだったのだ、が……。
またもや静がやった。アーティに問われて、スマートフォンに登録してある楽曲は孝子の作、と言ってしまったのである。「高校の先輩にして姉の友人の岡宮鏡子」という自作の設定を忘れていたのだ。
「で、ね。アーティに、スーの姉がいい曲を書く、って紹介されたエディさんが気付いたんだ」
「何に?」
「『逆上がりのできた日』が誰の曲か」
「どういうこと?」
「だって、エディさん、組む相手として剣崎さんの研究をしてたんだもん。『昨日達』だってチェックしてる」
「あ。そういうことか」
「あれー。『逆上がりのできた日』はキョウコ・オカミヤの作品のはずだけど、シズカサーンはお姉ちゃんの作品って言ってるぞー、って。でも、それが決め手になったみたいだよ。静ちゃんと縁の深い人に、こういう才能を持った人がいたのは天啓だ、そうですわよ」
「……お前、怒られなかったのか?」
「私の、とっさの『言い訳力』を麻弥ちゃんにも聞かせてあげたかったよ」
孝子はシャイなのだ、そうだ――音楽活動がばれるたびに、周囲への申し開きとして使用してきたものを、ここでも引っ張り出したらしい。シャイなアーティストとやらの信頼を得るため、剣崎は艱難辛苦の思いで調整に奔走していたと聞くし、静が岡宮鏡子の正体を明かすことをはばかったのも、孝子の人となりを知る故だったろう。無論、張本人が軽い話程度で尻尾をつかませるはずはなかった。いずれも、表面上は、シャイ、の証左といっていい行動なので、流れに滞りは見られない。
かくして、とっさの「言い訳力」の産物を了承したエディから、改めてアーティの歌手活動へ協力を求められた孝子は、渋々と、これを請けるしかなかった、という次第であった。




