第一八九話 きざし(一一)
静の試合を観戦した各務は、ほぼとんぼ返りといっていい滞在期間の短さで帰国した。思い立ったが吉日とばかりの挙だったので、それほど日程に余裕がなかった、というのが理由の一点だ。そして、もう一点は東京都北城区の国立トレーニングセンターを拠点として実施されている、大学代表女子バスケットボールチームの合宿を観覧するため、であった。
五月の月末から六月の月初にかけて一週間の予定で組まれた、この合宿が、女子バスケットボール関係者の間で、ひそかに注目されていた。それは「至上の天才」こと北崎春菜が、突如、合宿への参加を希望し、これが認められたことによるものだった。既に大学代表は七月に行われる世界大学スポーツ選手権大会に向けて、代表選手の発表を終えている。本来であれば、このような時期に新たに選手を迎え入れるなど、不測の事態でもなければあり得ないことだ。しかも、今回は選手側の自薦ときている。
――この日の大学代表チームは東京都大港区にウェヌススプリームスを訪ねていた。現地の体育館で実戦形式の練習を行うのだ。いわゆる出稽古である。各務がウェヌス本社構内の専用体育館を訪れると、迎えたのは全日本ヘッドコーチの中村憲彦だった。
「各務先生。ご無沙汰しております」
大学までは選手だったという一九〇近い長身が、深々と折り曲げられた。
「おう。中村君も来とったか。そうだ。いろいろ、手間を取らせたらしい。まずは礼を言わんとな。ありがとう」
「恐れ入ります」
あり得ない時期の合宿参加が認められたのは、春菜の能力への評価もあったが、何より大きかったのは中村の意向だった。ぜひ、許可しろ、と鶴の一声を発したのだ。あらゆる年代で招集の声を無視し続けてきた「至上の天才」が、今ごろになって、なぜ、とは最初に思ったことだったとか。ただ、細かい話は後でいい。取りあえず要望に応じておいて、なんとか、今後、につなげていけたら、といった思惑なのだ。今後とは、全日本チームへの春菜の参加、である。
「怒らせてな」
「北崎を……?」
「うん。ああ、中村君。レザネフォルでの試合、見たよ」
「は。これは、どうも、お恥ずかしい限りです」
「あんな反則みたいなことをされたら、どうしようもないさ。で、だ。静も、なかなかいい動きしてたろう」
「はい。短い間に、素晴らしく伸びました」
「あれに、苦戦するんじゃないか、って言ったら、お前の蒙を啓いてやる、ってな」
「なんと……」
自らの意向を率直に語った中村に、各務も腹蔵なく返している。元々、各務の中村への評価は高い。公立校で転勤を繰り返しながらも、十分の経験を積んできた少壮気鋭の指導者を、いいのがいるもんだ、と口外もしていたぐらいだ。中村が静や景に嫌悪される原因となった「スイッチシュート」への対応についても、問題視していない。私でもやめさせようとしたかもしれん、と長沢美馬に言ったことさえあった。静の場合は、たまたまうまくいったが、ほとんどが徒労に終わる可能性の高い危険な技術、というのが各務の「スイッチシュート」評だった。
「中村君は、ずっといるのかね?」
「はい」
「あれは、どうだね?」
「は。それが……」
中村は、なぜか、歯切れが悪い。
「どうしたね?」
「初日こそ、さすがの動きを見せてくれていたんですが、二日目になると、まるで空気が抜けたようになってしまって」
「はて」
アリーナに入ると、確かに空気の抜けたようにしぼんだ春菜がいた。各務に気付き、大学代表を離れて近づいてくる。
「各務先生、お帰りなさい」
「おう。……何かあったか?」
「ありもあり。大ありです」
静にメッセージをもらった、と春菜は説明した。。勘違いなどしていないし、まだまだあなたに遠く及ばない存在、と自覚している。よって、勝手に心持ちを想像されたのは遺憾だ、そうだ。
「丁寧な中にも確かな怒りを感じましたよ。仕方ありません。今回は私の勇み足でした。というわけで、静さんを発憤させる必要はなくなったんですが……」
「が……?」
「私、各務先生にもたんかを切ったじゃないですか」
「……たんか? ああ、啓蒙する、ってやつか。あと、大学代表を世界一に、とも言ってたな」
「そうです。本当に、つまらないことを言いました。もしかしたら私には失言癖があるんでしょうか。私は嘘つきではないのでやりますけど。実に心躍りません」
目の前のしけた面に各務も苦笑しかない。
「これに懲りたら、だな」
「全くです。さて、この憤まんやる方ない気持ちを、ウェヌスにぶつけてきますよ。もう、けちょんけちょんにします」
唇をとがらせ、首を振り振り、春菜は戻っていった。この後、行われる練習試合は、ウェヌススプリームスにとって、とんだとばっちりとなりそうだ。そう各務は思った。