第一八話 春風に吹かれて(一)
宅配便の仕分けのアルバイトを終え、帰宅した正村麻弥が夕食の席に着いたのは、午後九時を過ぎたあたりだった。シャワーを浴びた後の生乾きの髪にタオルを載せたまま、麻弥は対面キッチンの向こうから、次々と渡される食器をダイニングテーブルに並べていく。昆布締めした鯛のにぎりに吸い物、たらのめのあえ物というのが、この日のメニューだ。朝と昼をしっかり食べて、夜は控えめにする孝子のスタイルに、麻弥もすっかりなじんでいる。
「久しぶりに天ぷらが食べたいな」
たらのめを箸でつまみ、顔の前に掲げながら、麻弥が言った。
「いいね、春野菜の天ぷら。ふきのとう、アスパラガス、しいたけ。ああ、新たまも」
「かきあげにするなら、エビが欲しい」
「明日、出る。帰りに、買ってくるよ」
「どこに?」
「カラオケ」
「ああ。郷本?」
「と、一葉さん。四月に入れば、ぼちぼち身内でのお祝い事とかも一段落しただろうし、どう? って誘ってもらった」
麻弥の実家の隣に郷本という家がある。ここに尋道と一葉なるきょうだいがいる。弟の尋道が麻弥と同い年で、姉の一葉は三つ年上だ。隣家なので、二人の存在を麻弥はもちろん承知している。しかし、顔見知り以上の存在ではなかった。幼少時の異性は別世界の住人だし、同性でも、三歳年上は別世界の住人だ。
この尋道と一葉のきょうだいと孝子が、大の仲よしなのである。高校一年の時、郷本尋道とカラオケに行ってきた、と聞かされて、麻弥は困惑したものだ。そんなに仲がよかったのか……? だが、これまでに二人が会話をしている場面に遭遇した覚えはない。そもそも孝子は、男子からのアプローチを、ことごとくはじき返していたので、方面に興味がない、と思っていた麻弥であった。理由は洋楽だ。郷本きょうだいは父親の影響で、相当に洋楽に詳しい、らしい。
「お前、洋楽好きだったの?」
「お母さんの影響でね」
「おお」
「洋楽に親しんでいれば、外国語を知る取っ掛かりになるよ」
「それは、そうだな。教育的な意味合いか」
「日本語は、日本にいれば自然に覚えるし、邦楽は必要ないよ」
「そういうものでもないだろ」
「私もそう思う。でも、母の教え」
人の悪い笑みを浮かべて孝子は言った。
「極端だな」
「そういう人の娘が、私みたいに素直な子なんて、世の中はわからないね」
ここでタイミングよく麻弥がそっぽを向いたので、二人しての大笑いとなったのもいい思い出だ。
「そういえば、小早川には連絡した? あいつも祝い事、やりたがってるんじゃないか?」
「やりたがってる。今は広島に長期で帰省中で、春休みが終わったら、って」
「ふーん」
「麻弥ちゃんも来る?」
「遠慮しておく」
聞いておきながら、早々に麻弥は話に区切りを付けた。小早川基佳は孝子の友人である。彼女にとっての麻弥も同じだ。決して不仲なわけではないのだが、友人の友人同士は、孝子の仲介があって、初めて会話が成立する程度の組み合わせであった。
「……ふと思い出したんだけど、鶴見なんてのも、いたよな」
にぎりを口に運びかけて、また麻弥だ。返答には、やや時間がかかった。
「……いたね。そんな人も」
「もしかして、忘れてた?」
「もしかしなくても」
鶴見智美は、孝子にとって鬼門の人物だ。
「あの人、少しおかしいんじゃないかな」
真顔で孝子に言われて、麻弥は苦笑いを浮かべた経験もある。智美は学年屈指の秀才で、異様なまでに他との比較を気にするところがあった。これまた学年屈指の優等生だった孝子は、その対象となったのだ。テストの返却が終わると、智美は孝子目掛けて一直線でやってくる。これが、別のクラスになっても続いては、孝子の智美評も、ある程度、正鵠を射たもの、と言わざるを得なかった。ちなみに、三年にわたった抗争は、中途より、あいつ、うざったい、と征伐に本腰を入れた孝子の圧勝で終わっていた。
なお、その後の二人は、という話になると、浪人生活を経験した孝子に対して、最難関と称される国立大学に現役で合格した智美が、一歩先んじていた、と表現してよかっただろう。孝子はもとより、智美も、受験に失敗した、かつての好敵手への関心を失っていたので、互いになんの感慨も抱かない現実ではあったが。