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未知標  作者: 一族
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第一八七話 きざし(九)

 昨日までの祥子は、悲嘆の真っただ中にいた。理由は、静を応援するためのレザネフォルツアーに参加できない、からだった。受験生なので勉強に専念したい、と事情をねつ造して、神宮寺美幸には既に断りを入れていた。

 ……そうだ。ねつ造、なのだ。受験する予定もないのに、何が受験生か。こんな惨めなうそをつかなければならない自分の境遇が、わびしくて仕方がなかった。神宮寺家を訪ねた、その帰り道に、祥子はひそかに涙したものだ。

 金である。行けないのは、もちろん、金の問題である。神宮寺家の当主が、招待する、と言ったのだ。渡航費と滞在費は持ってくれるのだろう。さりとて小遣いの面倒までは見てくれまい。その小遣いに充てる金が、はやらぬラーメン屋の娘にはないのだ。土産の物色をする同行者たちのそばで、指をくわえて眺めているしかないのか。冗談ではなかった。そんな恥ずかしい思いをするぐらいなら、うそをついてでもレザネフォルには行くべきではないのだ。

 ところが、今日は一転して、祥子、得意の絶頂となった。なんと、高鷲重工アストロノーツのスカウトが届いた。

「お。高遠。まだ行ってなかったか。よかった。ちょっと、おいで」

 放課後、部活に向かおうと教室を出た祥子に長沢の声だった。女子バスケ部顧問の長沢は祥子の担任でもある。

 連れていかれたのは進路指導室だった。生徒たちが静かな熱気を発生させる空間を奥へと進み、面談スペースの一角で二人は相対した。

「スカウトがあった」

 ぽつりと長沢は言った。

「……私に、ですか?」

「うん」

「どこ!? どこですか!?」

「こら。落ち着け。座れ」

 言われて、祥子は自分が立ち上がっていたことに気付いた。改めて席に着き、身を乗り出す。

「重工」

 最高の進路が、前触れもなく開かれた。女子バスケットボールチームを所有する企業中でも、一、二を争う大企業、……いや、日本でも、一、二、だ。その高鷲重工からスカウトが来るとは。やっと、やっと、やっと、貧相な生活を抜け出せる。祥子の脳裏に浮かんだのは、まず、それ、であった。

「行きます」

 祥子の即答に、長沢はなぜか渋い顔を見せている。

「まあ、待て」

 長沢は言った。高鷲重工アストロノーツはウェヌススプリームスと並び、筋金入りの猛者たちが集結する国内二強の一だ。二強には空気がある。歴代の猛者たちが育んできた、極めて独特の空気だ。

 自分の方針を間違ったものとは、ちっとも思わない。思わないが、猛者たちを生んだ各校と比べれば、とんでもなく緩いことは動かぬ事実だ。朝練は行わない。放課後の活動も短い。週に一回は必ず休みを入れる。試験週間ともなれば、一切の活動は禁止にして勉強に専念させる。そんな緩さの中でバスケットボールをやってきた祥子は、きっと、苦労する。高鷲重工への就職は慎重に考えなさい。

 しかし、長沢の真情にあふれた言葉も、今の祥子には届かない。完全に上の空で、今後の自分を夢想している。

 初任給で何を買おう? 重工ほどの大企業であれば、二〇万円はもらえるだろうか。二〇万円があれば、どうするか。……服。最初は、絶対に、服だ。買い食いもしたい。先輩や伊澤におごるのもいい。

 寮には個室があるのだろうか? 個室でなくとも、二人部屋ぐらいまでなら余裕で許容範囲だった。1DKの「1」に親子三人で川の字に寝る、どうしようもないわが家よりは何倍もましといえた。

 スマートフォンも忘れてはならない。キャリアとメーカーは先輩と伊澤に合わせるとしよう。二人とも同じキャリアで、同じメーカーだったはずだ。

「高遠。聞いてるか」

 まるで人の話を聞いていないふうの教え子に長沢の注意が飛んだ。

「先生。うちにお金がないのは、先生だって、ご存じでしょう。苦労なら、もう、十分にしてきました。貧乏以上に大変なことなんてありません。私は重工に行きます」

 これを言えば長沢も沈黙するしかない。うるさい担任にして顧問を退け、祥子は再び夢想へと戻っていく。何しろ、考えただけでまなじりの下がってしまうような、ばら色の日々が始まろうとしている。一文にもならない説教など、聞く暇のあるわけなかった。

 祥子は忙しいのだ。

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