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未知標  作者: 一族
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第一八四話 きざし(六)

 ミューア邸の二階に居候する静の部屋は、極めて簡素だ。ベッド、デスクとセットの椅子、以上である。調えてくれたのはエディで、全て日本製とのことだ。日本の家具は手に入れにくいとか、わざわざ日本から取り寄せたという。アメリカにだって優れた家具メーカーはあるだろうに。日本びいきもここまでくると滑稽味を帯びてくる。そういえば、静がエンジェルスの同僚コニーに奉られたスージーと転じたスーの愛称を、ミューア邸でエディだけが受け入れてないのも、彼の日本びいきの故だった。

「日本にそういう文化はない」

 こう宣言してシズカサンを通している。確かにアメリカほどに、ニックネームで呼び合うことは、一般的ではないだろう。しかし、全くないわけではない。言いやすいほうで構わない、と静は呼称をシズカに戻そうとしたアーティらに告げたものだ。

「みんな、あっという間に『スー』になっちゃった。言いにくかったんだろうね。エディさんだから普通に言えてるんだよ」

 そして、エディへ日本語での配慮も忘れない。

 午後一〇時。静はエディ心尽くしのベッドに、あおむけに横たわっていた。眠りに付くには、少し早い時間だ。耳に着けたイヤホンは義姉に贈られたものである。このイヤホンをスマートフォンに接続して、聴いているのは、『逆上がりのできた日』、『指極星』、『FLOAT』、『My Fair Lady』の四曲だ。これらしかスマートフォンには登録していないので、延々と繰り返している。

 この日で、エンジェルスのプレシーズンゲームが終わった。飛行機での遠征を経験した。歓声を経験した。ブーイングを経験した。インタビューを経験した。全三試合と試合数こそ少なかったが、シーズン前の体験期間はルーキーにとって得難いものであった。

 明日にはロスターの登録が締め切られる。チームの登録人数は一二人である。今日まで共にやってきた一〇人の招待選手たちのうち四人が消える。「金髪お下げ」のコニーは、周囲の空気を見るに大丈夫そうだ。彼女を生き残らせる、という静の当初の目標も達せられそうではある、が……。今の静は、他の九人にも強い親愛の情を抱いている。誰一人欠けてほしくはない。かといって契約組の誰かが消えるのもいけない。一六人でシーズンに入りたい。かなわぬ望みと知りつつも、静の本意だった。

 当初はぎこちなかったチームメートたちとの関係は、あの全日本戦で大きく変わった。突如として登場した敵役に対する団結で、一六人は仲間になったのだ。復讐に助太刀してくれた仲間には感謝の念しかない。その仲間のうち四人が、あさっての開幕戦にはいない……。にぎやかで、和やかだった、この一〇日余りを思うと、自然と気持ちがふさいでくる。

 嘆息した瞬間、ぬっとアーティの顔が現れた。

「うわあああ」

「ノックしたのよ?」

 イヤホンを外して放り、起き上がると、既に無遠慮にベッドに腰掛けているアーティをにらむ。言うには、どうも気鬱な様子だ、と心配していたらしい。しかし、その気鬱の原因を語ったところ、アーティは鼻で、ふん、と笑うのだった。

「何を甘っちょろいことを言ってるの。これで終わりじゃないのよ? シーズンに入っても、使えないって判断されたら、容赦なくカットされるのよ? それがリーグよ?」

 そのとおりである。LBAは冷厳としたプロフェッショナルの世界なのだ。甘過ぎる考えだ。そういう考えでいるのなら、次はお前だぞ、とアーティの言外の叱咤だった。

 静がうつむいていると、隣のアーティは、ごそごそと何やらやっている。どこから取り出したのか、イヤホンを耳に……静のイヤホンだ。

「ちょっと、アーティ。何してるの!」

「やっぱり日本の曲を聴いてるの? ……なんだ。英語じゃない」

「うん。私のお姉ちゃんの曲」

「ええ? これ、ケイトじゃないの?」

 ケイト・アンダーソンは孝子の最も愛する米国人歌手の名だ。彼女と義姉の声は、よく似ているらしい。

「いや。私のお姉ちゃん。その、ミス・アンダーソンと声が似てる、って、よく言われてる。お姉ちゃんも、ミス・アンダーソンのことが好きで、ニックネームも、ケイティー、っていうんだよ」

「へえ。スーのお姉ちゃん、ってことは、まだ若いんでしょう?」

「アーティと同い年」

「それで、よくケイトなんて知ってるわね。あの人が亡くなったのって、もう、何十年も前よ」

「そう言うアーティだって、知ってるじゃない」

「ケイトは、レザネフォルの人よ。ここで生まれて、暮らしていれば、知る機会は、結構、あるものよ。それにしても、ケイティー、うまいじゃない。曲も、すごくいいわ。ケイティーはプロの歌手なの?

 しまった、だった。静、高校の先輩で姉の友人という岡宮鏡子氏の存在を忘れていた。

「ええと……。プロじゃなくて、趣味で音楽をしてる人……?」

 アーティは応えず、ベッドに横たわって目を閉じている。聞き入っているようだ。

「そういえば、アーティ。シーズンのことなんだけど。開幕戦に向けての心得とか、そういうの、聞きたいな」

 静、アーティのケイティーに対する興味をそぐべく、必死の軌道修正である。

「私よりシェリルに聞いたほうが的確な答えが返ってくるわよ。それよりも、私、前から歌手の活動をしたい、って思ってたんだけど、エディが言うには、なかなかいいプロデューサーがいないらしくて。ずっとお預けになっていたのよ。ケイティーに頼む、っていうのは、どうかしら」

 おまけが付いて話が戻ってきた。

「ええ……? ちゃんとしたプロに頼みなよ。絶対に、そうすべき」

「スー。あなたにはよくわからないのかもしれないけど、ケイティーの曲、完全なプロだわ。スーのお姉ちゃんなら、きっといい人だろうし、エディも日本人と組めるなら、きっと喜ぶわ」

「いや、だから、ケイティーは、音楽はプロ級でも他がアマチュアなの」

「ケイティーには音楽だけ頼むわ。他はエディにやってもらうのよ。うん。実にいい考えだわ」

 期せずして、静がエディに提案した、プロデューサー、エディの下で孝子が音楽面を担当する、という体制に行き着いていた。ただし、静の提案では、音楽面の担当者は高校の先輩で姉の友人という岡宮鏡子氏であって、断じて、ケイティーこと孝子が、そのポジションに収まる体制ではない。なんとかせねば。なんとか……。

「スー、ちょっと借りるわね。エディに話してくる」

 アーティが静のスマートフォンを片手に立ち上がった。さすがの速さだった。あっという間に部屋を駆け出していった。

「待って!」

 悲鳴を上げて静は追ったが、もちろん、間に合わなかった。

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