第一八三話 きざし(五)
夜のSO101に在室しているのは、孝子、麻弥、みさと、春菜、そして各務だ。夕方まではいたという郷本尋道は、ノートパソコンとテレビとの接続を済ませて去っている。アルバイトがあるためだった。ワークデスクの上にはみさとが買い込んできた軽食、飲料が並んでいる。手早く頬張って、準備は万端である。
「各務先生。解説、お願いします」
「おう」
「じゃあ、始めまーす」
みさとがノートパソコンを操作すると、巨大な画面に映像が映った。コートを一望するアングルが不動なのは、ビデオカメラを高所に据え置き、無人で撮影したためだろう。
開始早々の、静からアーティへのパス、ダンクシュートで室内はいきなり沸き立った。
「うん……?」
その次の瞬間のうめきは各務だった。シェリルが前線に出張り、全日本チームのボール保持者に対して圧力をかけている場面だ。
「なんだ。なんで、そんなことをする。必要なかろう」
苦し紛れに放られたボールを静が奪った。シェリルにつないで、そのまま得点。再開後、全日本のボール保持者にまたシェリルが向かう。
「なんだ。なんだ、この試合は」
「先生。さっきから、なんだ、しか言ってないですよ」
「他に言いようがあるか。……これは、アメリカの必殺技だな。シェリルにあれをされたら、前を向けるやつは、世界にもほとんどいないだろう。だが、必要ない。負けてるわけでもない。流れが欲しいわけでもない。まして相手は全日本だ」
シェリルの執拗な圧力は続き、じりじりと点差が開いていく。第一クオーターにして、試合はほぼ決してしまったような感がある。
第二クオーターが始まった。静の、この日、何本目かのシュートが入った。ここで、各務が叫んだ。
「これか! 見たか!?」
「先生って、致命的に解説に向いてないですね。あの、今、静さんはシュートを右手で決めたんですけど、そこで右手の指を一本立てたんです。この前まではずっと左手のシュートで、そのときは左手の指でした。一本、二本、三本、って」
「お前、気付いてたなら言わないか」
「静さん、今の全日本の監督に、あの左右両打ちをやめろ、って言われて、それを無視したもので、ずっと干されているような感じなんですけど。正村さんと斎藤さんは、ご存じでしたか?」
二人は同時にうなずいた。麻弥は孝子に聞いた話で、みさとは静と春菜の「名勝負数え歌」を追っているうちに、それぞれ静と中村の確執に触れていた。
「ハルちゃんと須之内さんも巻き添えになったんだっけ」
「須之は、まあ巻き添えですけど、私は自由意志なので。今でも招集はあるんですよ。行かないだけで。ちょっと話がずれました。つまり、この試合は静さんの、中村さんに目にもの見せつけるための試合なんですよ。右手で決めるたび、左手で決めるたび、見たか、って」
会話の間も試合は淡々と進んでいた。点差は広がり続けている。
「シェリルとアーティは、わかるんだ。静を気に入ってるらしいしな。他の連中も、よく動いてる。一切、抜いてない」
「そうですね。全員が積極的です」
「静のために、か……。孝子」
ここまで無言で画面を眺めていた孝子に、各務の声だった。
「もちろん、通用すると思って推薦したわけだが、それでも、いろいろと苦労はするだろうな、と思ってた。ただ、ここまで周りになじんでるなら話は別だ。苦しいときに一人じゃないのは大きいぞ。本格的に活躍するかもしれん」
孝子、黙礼である。
「しかし、弱いチームじゃないんだがな。全く、弱くないんだ。それが、こうなるかな」
各務の口舌が、ぱたりとやんでしまった。女子バスケットボールに長く関わってきた者だけに、いくら世界最強のリーグの一番手とはいえ、たかだか一チームに全日本チームが、ぼろぼろに打ち負かされるざまは衝撃的だったようだ。
「おばさん、ちょっとへこんでるみたいなので、私が解説しましょう」
一方、こちらは自分には関係のないことと平気の平左の春菜である。両軍の全選手の特徴を把握して、試合の流れを読み切った解説は、見事と表現する以外にない。
「ハルちゃん、やっぱすごいのな。解説の仕事とか、あったら受けてもいいんじゃない?」
「はした金じゃ嫌ですよ」
「どれくらいなら考える?」
「五〇万円」
「……それって、野球とかサッカーの解説やってる人たちより上じゃない? 相場は、よく知らないけど」
「つまり、やる気はない、ってことだろ」
試合は終わった。映像も止まった。SO101が静寂に包まれる。
「さて。お疲れさんでした、っと。帰りますかー」
時刻は午後一一時近い。
「各務先生。お帰りは、どうされますか? お送りしましょうか?」
「ああ、いい。家の者を呼ぶ」
各務が愛用のフィーチャーフォンを取り出した。口ぶりから、相手は子息のようだ、などと孝子たちは思いつつ、音を立てぬように室内の清掃を進めていく。
「しかし、静は見違えたな」
通話を終えた各務が、ぼそりとつぶやいた。
「シェリル、アーティと毎日、やってきた成果だろう。完全に全日本を見下ろしていたな。まあ、あの二人を見た後じゃ、どんな相手も怖くはないか。お前も苦戦するんじゃないか?」
各務が見たのは春菜である。
「何をおっしゃってるのやら。鼻で笑いますよ。各務先生ほどの方まで、そんなことをおっしゃるようでは、静さんも、もしかしたら勘違いをし始めているかもしれませんね」
返しは、あまりに不遜な内容だった。孝子、麻弥、みさとが、はっと視線を取り交わしたほどである。
「各務先生。確か、少し前に大学代表の招集がありましたね?」
「興味ないんじゃなかったか」
「ありませんでしたが、世界での私の立ち位置を、静さんに知っていただこうかと思いまして。きっと発憤していただけるでしょう。ついでに各務先生も啓蒙してあげます。ちょっと大学代表を世界一にしてきますので、私が参加できるよう、大学代表に打診していただけませんか?」
慌てた麻弥が、こら、と春菜の肩を小突いた。しかし、春菜はわびを言うでもなく、くっく、と喉の奥を鳴らし続けている。




