第一八〇話 きざし(二)
トレーニングの合間だった。チームスタッフのキャシーに、その話、を聞かされたとき、静は表情筋の急速な硬化を意識した。目の前のキャシーのけげんな顔を見て、慌てて笑顔を繕う。
「オーケー。わかった」
早口で言って、その場を離れた。また表情筋が固まりだした。多分、今、自分はすごく嫌な顔をしているだろう。静は、そう思った。全日本女子バスケットボールチームとの練習試合が決まった。その話、の内容だ。
何やら怒声が聞こえた。視線を動かすと、コートの隅でアーティが先ほどのキャシーの肩をわしづかみして何やら絡んでいるのだ。懸命にキャシーは言い返している。大柄なアーティと小柄なキャシーの組み合わせは、猛禽類と捕らわれた小動物の感である。
平穏ならざるこのときの静は、すぐに視線を外して再び一人になろうとした。そこに届いたのが「スー」という単語だった。「スー」は静のニックネームだ。命名はコニーである。シズカとスージー――「Shizuka」と「Suzie」の類似性に気付いたことが発案の理由とか。「スー」はスージーのさらに短縮形だ。チームメートたちには「シズカ」が言いづらかったようで、瞬く間に浸透している。双方で何文字か行方不明だが、これは気にしてはいけないのだろう。
「どうしたの……?」
駆け寄ると、キャシーが顔を紅潮させながら静に組み付いてきた。
「スー! アートに言って! 私、あなたに何も言ってない!」
「何も言ってない、ですって!? じゃあ、どうしてスーはあんな顔をしたのよ!」
アーティが強引にキャシーを静から引き剥がす。これでわかった。アーティは静の表情の変化を見て、キャシーに「何か」を言われたのだ、と勘違いしたのだ。
「アーティ。キャシーは、全日本との練習試合が決まった、って教えてくれただけだよ」
アーティの険しい表情は崩れない。それはそうだろう。自らの母国の代表チームと対戦すると知って、あんな顔、とやらをする者も、そうはいまい。三人の周囲にはチームスタッフ、チームメートたちが集結しつつある。曖昧に乗り切れる状況では、もはやなさそうである。
「本当よ」
言いながら、静はキャシーの乱れた服装を直す。
「大丈夫だった?」
「え、ええ……」
静は自分とほぼ同じ高さのキャシーの肩を抱き寄せ、かっと、アーティを見つめる。
「……私は全日本のヘッドコーチ、ミスター・ナカムラが嫌いなの。思い出しただけで『あんな顔』になっちゃうぐらいに」
静は全ての年代において全日本チームに参加したことがない。中学校までは全くの無名であったため、これは致し方ないだろう。しかし、北崎春菜と激闘を繰り広げるようになった後の静の不参加は異常だ。これに関わるのがミスター・ナカムラこと、全日本女子チームヘッドコーチの中村憲彦である。
各世代の全日本チームへの選出経験はない静だが、その候補に挙がったことは、一度だけある。春菜との巡り合いを果たした三年前の高校総体、その直後のアンダー世代合宿だ。当時の、この世代のヘッドコーチが、かの中村だった。三年前の静はナジョガクの松波翁すら、そこまでとは思えない、とみた程度の存在でしかなかった。それを抜擢したのだ中村の目は確かだったといえるだろう。
事件は、合宿の初日に起きた。静の左右両打ち「スイッチシュート」について、中村の指導があったのだ。中途半端なことはやめて、どちらかに絞りなさい、ということである。今の静ではない。三年前の静だ。「スイッチシュート」も、かなり危なっかしかった。中村の指導は当然といえる。
しかし、この当然に静が反発したのは「スイッチシュート」が、恩師のお墨付きを得た技術ということがあった。小学校、中学校と専門的な指導者に出会わなかった静にとって、初めての本物の指導者である長沢美馬の存在はあまりにも大きい。その長沢は、やりやすいなら続ければいい、と「スイッチシュート」を制限しなかった。
「明らかな間違いでなければ尊重する」
恩師の教育方針である。
中村を無視し続けた静に、やがて決定的な言葉が投げ掛けられた。
「いつまでやってるんだ。誰に教わったのか知らないが、つまらないことは今すぐにやめなさい。私の言うことに従えないならコートを出てもらおうか」
専門的な指導者との出会いのなかった自分が、身長で衆に劣った自分が、創意工夫で身に付けたこと。それを恩師が認めてくれたこと。どちらも否定された。まさに、決定的な、だった。憤然として静は合宿の行われていた国立トレーニングセンターを去った。……以来、全ての年代の全日本チームに静は招集されない。実力で同世代に劣っているつもりは全くなかった。ならば、問題児として忌避されたのか。それとも、誰やらかの意向が働いたものか。それは不明だ。不明だが、静は中村の差し金と信じて疑っていない。
一点だけ、後悔がある。自分と中村の対立に須之内景と北崎春菜を巻き込んでしまったことだ。
三年前、初心者に毛の生えた程度だった景は、もちろん合宿に参加してはいなかった。しかし、合宿を離脱した静が、切々と無念を語ったところ、景は中村への嫌悪をあらわにし、同時に静への共鳴もあらわにした。自らに初めての招集が掛かったとき、景は静と行動を共にすることを選んでくれた。自然、景にも招集が掛からなくなった。全国屈指の点取り屋に成り上がった盟友が、各世代の全日本チームへの選出経験がないのは静のせいなのだ。
そして、北崎春菜だが、こちらは景の場合と少し様相が異なる。
このときのアンダー世代合宿に春菜も参加していた。ミニバスケットボールのころから、この手の招集に全く応じなかった彼女が、初めて出張ってきたのは静の存在故、という。その相手が中村ともめた。もめて、合宿を去ろうとしている。とくれば、続く「至上の天才」の行動は、こうなる。
「静さん、帰りますか。じゃあ、私も帰りましょう。ところで、話は変わりますが、もういい時間で、今から那古野に帰るのも面倒ですし、今夜はお宅に泊めていただけませんか」
静を含めた周囲の時間が完全に停止した中で、一人、春菜はにこにことしていたものだ。ようやく姿を見せた春菜をとどめようと、中村以下が一斉に迫っても、どこ吹く風だった。
「静さんがいる、と伺ったので私はここに来たんです。なので、静さんが帰るなら、私も帰ります。さようなら」
世に並ぶ者のない神技の持ち主を檜舞台から遠ざけたのは静、なのだろうか。元々、参加する気のない人だったわけだが……。なお、春菜の要望どおりに一夜の宿を提供したことが、神宮寺家の人々と彼女との間に面識のあった理由である。
とにかく、だ。景に迷惑を掛けた。春菜にも、多分、迷惑を掛けた、ように思う。この事実が、中村への嫌悪感をさらに強いものにする。以上を、緊迫感を欠く春菜の部分は割愛した上で、静は速射したのだった。
周囲はしんと静まり返っている。おとなしい、いつもアーティの半歩後ろにいるばかりと思われていた小さな日本人の、突如の変貌に皆がのまれているようだ。アーティ、シェリルすら無言で顔をこわばらせていた。
「スー、どうする?」
一声は、爆発したようなライトブラウンヘアが印象的なヘッドコーチ、ノーマ・バリーだった。
「全日本チームとの練習試合は断りましょうか? それとも……」
「それとも?」
「こてんぱんにのしちゃう?」
「やっつける! あの男が間違っていること。ミス・ナガサワが正しいこと。私が証明する。ヒカリの友情に応える!」
咆哮に、次々と協力を申し出る声が上がる。恩師のため、友人のため、という動機への感応らしかった。静は狂奔してチームメートたちと手のひらを打ち鳴らし合う。誰かが奇声を上げた。奇妙な高揚感、一体感がTHIセンターのコートに満ち満ちていく。




