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未知標  作者: 一族
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第一七六話 四月の彼女たち(一〇)

 祥子は鬱々としていた。まどかからカラーズの事務所見学に誘われたのである。長沢の引率で、那美も同行するという。

 祥子は外出を好まない。外出に堪えうるものの深刻な不足が理由だった。「もの」は、ずばり、私服だ。

 祥子の両親は「鶴や」というラーメン店を経営している。店舗は鶴ヶ丘駅前にある。家業を祥子は嫌悪しているので、店の盛衰については知らない。知らないが、はやってはいないはずだった。自分のわびしい生活を考えれば、それは明らかである。クラスで唯一、部活でも唯一、スマートフォンを持たない自分。小遣い制ではなく、入り用の都度の申請をしている自分。外出のための一張羅が下着まで含めて一万円で、たっぷりとおつりが出てしまうような自分。全く、ため息しか出ない。

 しかし、行き先といい、連れ合いといい、おいそれと断れない今回の誘いといえた。何円を支給してもらえるか。外で食事なんて話にならないだろうか。内心でぶつぶつとやりながら、祥子は当日を迎えた。

 日曜の朝、迎えにやってきた那美とまどかを見て、やっぱり断っておけばよかった、と祥子は悔やんでいる。グリーンのロングニットにライトグレーのスキニーパンツでまとめたまどか。ウエストに大きなリボンの付いたブラウスにゆったりとしたフレアスカートの那美。こちらは白と青の組み合わせだ。

 これに祥子は、グレーのフリースジャケットとデニムパンツ、スニーカーといういでたちで相対した。目に見えて、安い。静に、やぼったい、と心配されている格好の典型である。

「しまった。失敗した。もう少し着飾るべきだった」

 内心の後悔を出さぬように注意しつつ、祥子はこんなことを言って笑顔を見せる。

「どこも失敗してないじゃないですか。そもそも、その顔なら何を着たって失敗にはならないです」

 静と同じくまどかも、祥子のやぼったい服装と、その原因については承知しているので、自虐的な方向へは持っていかせない。那古野女学院高等学校の池田佳世と共に高校生では「双璧」と称される美貌の祥子だ。佳世が米国人の父親譲りの大ぶりな造作が特徴なのに対して、祥子は面長に切れ長の目で美人画の雰囲気を有している。つまり、服装なんてどうでもいいような美人じゃないですか、というまどかの言葉なのだ、が。

 ……どうでもいいわけがない。そんなことより、金だ。スマートフォンが持てたり。月に固定額の小遣いがあったり。一張羅の総額が二万円ぐらいになったり。そういったことのほうが、よほど素晴らしい。祥子は本気で、そう思っている。

 この地域一番の富裕の家に生まれたかった、などと贅沢は言わない。せめて、家に自家用車があって、ペットの犬を飼うことができて、駄目になったらすぐにバスケットシューズを買い替えられる――ぐらいの家に生まれたかった。ちなみに祥子が思い浮かべているのは、前者が神宮寺家、後者が伊澤家である。

 舞浜大学へと向かう途中の電車でも、祥子は後輩たちと上っ面の交流をしつつ、胸中では自らの貧苦を嘆いていた。舞浜大学に進学して、恩師の恩師である各務智恵子の指導を受けたい、という希望が祥子にはある。はやらないラーメン屋には、国立大学の学費だって払えるはずもないのだが。

 現実的な路線としては、実業団だろう。プロ、すなわちLBAは、無理だ。セレクションに受かる、受からない以前に、渡米する費用がない。国内の二強である高鷲重工アストロノーツか、ウェヌススプリームスか。どちらかに声を掛けられたら最高だ。強豪であり続けるのは、金があるからに他ならない。次点で……、いや、次点などとえり好みのできる立場ではない。実業団なら、どこだっていい。実業団を抱えているような企業に、金がないわけがあるものか。金。とにかく金だ。

 一行は舞浜大学千鶴キャンパス前駅に着いた。長沢との待ち合わせ場所が、ここなのだ。待ち合わせは午前一一時だったが、三人は早く着き過ぎた。今は午前一〇時半を少し回ったところである。ホームの隅に寄って、到着する電車をぼんやり眺めながら、五分、一〇分、一五分……。ようやく待ち人が降りてきた。

「先生、遅い! 三〇分待ったよ!」

「遅くないだろ。ジャストだよ。お前たちが早過ぎたんだよ」

 午前一一時着の便に乗ったのだ、と長沢は大威張りだ。

「そこは、一〇分ぐらい前には着くようにするべきじゃないです?」

 三人のやり合いにほほ笑みを浮かべるふりをしながら、祥子は長沢の服装を観察している。黒と白のシンプルなパンツルックの上に、パステルブルーのハーフコートをアクセントとしているようだ。祥子の恩師は、校内でこそジャージーで闊歩するような人だが、遠征時などの私服では、さすがに年相応の落ち着きを見せるのである。

 やっぱり、外出は嫌いだ……。三連敗の自己評価に抱きすくめられて、祥子は一行の最後尾をよろよろと歩く。よく晴れて、雲一つない晴天だが、少し風が強い。その風が身に染みる祥子だった。

 カラーズ合同会社の本拠地というインキュベーションオフィスは、構内北端にある駐車場の脇に立つ。明るいグレーの建物の前には、一行を待ち受けている人影が一つあった。

「高遠。姉ちゃんがいるぞ」

 手を振っているのは孝子だった。祥子は知る由もないが、グレー、ブルーの上下の組み合わせは一年前の春着を引っ張り出してきたものである。カーディガンとブラウスで隙なく決めていた昨日からの落差は激しい。鶴ヶ丘に戻る以上、養母にあいさつをしないわけにはいかず、そして、養母の前で抜いた格好は許されない、などとせせこましい考え故の選択だったのだ。つまり、養母の目のない今日は抜き放題、だ。

「本当だ! 姉ちゃん!」

「え……?」

「長沢先生が高遠先輩に、姉ちゃんがいるぞ、って。二人の服が同じ色!」

 合流すると、祥子は孝子に深々と頭を下げた。

「すみません、お姉さん。私のは『それいゆ』です。かぶっちゃって、すみません」

「それいゆ」はファストファッションストアの名である。

「私も『それいゆ』だよ」

 このときまで、祥子にとっての神宮寺孝子は、はるかな名峰であった。容姿といい、言動といい、これほどに令嬢然とした人を、祥子は知らない。同じ屋根の下で暮らす二人の妹たちには、そこまでの貫禄はないのだ。祥子は孝子が神宮寺家の養女であると知っていたので、死別した両親はさぞ立派な、重厚の人たちだったのだろう、と勝手な想像をしたこともある。

 その名峰が「それいゆ」を着ている。自分はこれしか買えないのに対して、あの人はあえての選択という差はあろう。それでも「それいゆ」なのだ。あふれ出た親近感で高揚した祥子は、笑み崩れかかるところを必死に抑えなければならなかった。

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