第一六話 フェスティバル・プレリュード(一六)
「海の見える丘、すっごい楽しみ。去年、何度も、行きたい、って言ったんだけど、駄目、って。お母さん、住所を教えてくれなくて」
那美が、膝の上の毛布をたたきながら言った。三人分の寝具はトランクに入りきらず、運転手の麻弥以外が、丸めて抱えているのだ。
「電話番号もわからなくて、電話できなかったしね」
受けたのは助手席に座る静だ。車内の五人の中では、一番身長が低い一六五センチだが、部活動でバスケットボールに熱中している体は、他よりも相対的に広く、厚い。故の席割だった。
「そうそう。孝子お姉ちゃん、つれないよ」
昨今では珍しい神宮寺姉妹のやりとりだ。
「そう言うな。おかみ、養女で浪人とか切腹ものの不始末をやらかしたんだ。そりゃ、勉強に集中しよう、ってなるよ」
「そういうことにしておいてあげるよ」
途中、軽食を買い込んだりと寄り道をした結果、海の見える丘の平屋に五人が落ち着いたのは、午後九時を回ったころだった。初めて孝子と麻弥の住まいを訪れた三人の驚きは大きかった。好事の家の間取りに驚きの声を上げている。
「なんか、住みにくそうな家ね」
一通り見回った倫世が言った。五人はLDKのダイニングテーブルとソファにめいめい散っている。
「居間と全部の部屋が直結とか」
「二人ぐらいまでなら、いいんだろうね。実際、前に暮らしていた方たちも、ご夫婦だった、って聞いてる」
「そのご夫婦が亡くなって、さて、貸そうにも、借り手がいるかどうか、っておばさんの友達がおばさんに相談して、で、おばさんが、この場所は孝子にちょうどいい、って借りたんだって」
「確かに、借り手が出てくるか、難しかったろうね。まともな部屋が、おかみの部屋しかない。正村の部屋って、あれは、納戸じゃないの?」
開閉のできない明かり取り用の窓しかなかった一室への指摘だった。
「いいんだよ。どうせ、明るいうちは、部屋にいるなんて、ほとんどないんだし。日光が浴びたければ、ここに来ればいい。それに、こんな部屋しか用意できないんで、家賃はただ、っておばさんが言ってくれて。大助かり」
「ただなら、ありか。そうだ。思い出した。正村。私がモデルになってやろう、って向こうで言ったじゃない。描いて」
麻弥、むせた。
「え。麻弥ち、絵を描くの?」
好奇に目を輝かした静と那美が麻弥に迫る。孝子は思わず噴き出していた。
「笑いごとじゃない。田村、お前」
「ああ。そういえば、こっそりやってる、とか言ってたっけ。悪い、悪い」
「麻弥ち、私も描いて!」
「私も!」
包囲網を敷かれて、半眼となった麻弥は、ぶつぶつとやっていたが、やがて、かっと孝子に目を向けた。
「孝子。BGM」
「スマホで鳴らせばいいの?」
「違うわ。一人では死なない。お前も巻き添えにする」
「大げさな」
「孝子お姉ちゃんも、絵、描くの?」
「描かないよ。無趣味で有名な私ですもの」
「孝子。頼む。一人で絵なんか描いてたら、さらし者じゃないか」
「本当に、大げさだね」
ソファから立ち上がった孝子は自室に向かった。部屋の奥のウオークインクローゼットに入り、立て掛けられていたギターケースを手に持つ。これでもって、付き合え、と麻弥は言っているのだろう。
部屋に戻ると、目を丸くした那美が寄ってきた。
「孝子お姉ちゃん、音楽、始めたの?」
「お母さんが、電子オルガンの講師をやっていたの。その流れで、ちょっと、ね」
「電子オルガンか……」
同じく寄ってきた静は眉をひそめた。
「習ってたの?」
「うん。個人的に、だけど」
「舞浜でも、続けたかった?」
「え? いや、別に。そこまでは」
「もしかしたら、あの部屋じゃ、電子オルガンとか置けなくて、諦めたんじゃないか、って思ったんだけど」
義妹の鋭い指摘に孝子は冷や汗だった。神宮寺家に引き取られと決まった際には、落ち着いたら亡母の電子オルガンを運んでもらおう、と考えていたのだ。しかし、新たな住まいであてがわれた部屋はあまりに小さかった。増築の提案は固辞したので、孝子としては、仕方ない、の心境で、たまの帰省の際に眺める程度で満足していたのである。固執がばれると、養母にいらぬ気を使わせてしまう。
「大丈夫だよ」
「なら、いいけど。ギターも、お母さん?」
「いや。ギターは、高校の時に友達にもらって」
正確には、友人の父親に、なのだが、孝子は概略にとどめた。
「孝子お姉ちゃん、家で弾いてたこと、あったっけ?」
「音が迷惑になるでしょう。『本家』で練習させてもらってたの」
「……美咲叔母さん、そんな話、一度もしてないよね?」
「絶対に言わないでください、ってお願いしてたの。おばさまも知らないはずよ」
「どうして……?」
「趣味だもの。人にひけらかすためにやってるわけじゃないもの」
「……じゃあ、今は?」
「そこで、死ぬ、死ぬ、ってうるさい子がいるでしょう。死なれたら、困るじゃない。麻弥ちゃん。一曲で一枚、やって」
「できるか。お前の好きな曲って、短いのばかりじゃないか」
ダイニングテーブルの上に画材を広げながら麻弥が毒づく。
「お。おかみの歌に合わせてか。よし。私も参加する」
孝子と並ぶ響子の愛弟子が名乗りを上げた。師を同じくし、教材も同じくした二人だ。問題なく、歌い合わせられよう。夜も更けてきた。声の出し過ぎにだけは注意せねばならなかった。