第一六三話 私のために鐘は鳴る(一五)
「はーい」
返事はあったが、扉は開かない。しばらく待っていると、
「入っていいよ」
の声だ。麻弥は扉を開け、孝子の部屋に入った。夕食の準備が整ったが、なかなか自室を出てこない、と呼びに来たのだ。
ノートパソコンに向かっていた孝子が手招きをする。見ると、画面にはアーティ・ミューアが映っていた。孝子が操作すると動画が再生される。アーティの高音が室内に響いた。
「あの人、歌手もやってるのか?」
「いや。これは個人でSNSに投稿したものだって」
「ふーん」
「エディさんに連絡をもらってね」
言い終えて、失笑だ。
「どうした」
「岡宮鏡子のことを教えて、って」
静とエディとの間のやりとりから出てきた話、という。
「アーティ、歌が好きで、歌手活動を始める予定があるんだって」
「うん。で、岡宮鏡子の名前は、どうして?」
「愚妹にきまってるじゃない。……エディさん、アーティを手掛けるプロデューサーのコンペをやってるんだけど、なかなかいい人がいないんだって。というのも、アーティの『女性』を売りにしないでほしい、って意向がエディさんにはあって、それがプロデューサー選びの大きな障害になってるみたい」
「『女性』……? ああ。セクシー系とか、そういう話?」
「そう。で、愚妹めがほざいたそうだ。エディさんがプロデューサーになって、音楽のほうは信頼できる知り合いを紹介する、とかなんとか」
「はあ……」
腕組みをして麻弥は首をかしげている。
「あいつ、お前にすごまれる、って考えなかったのか」
「岡宮鏡子は、高校の先輩で、姉の友人だって、さ」
「……高校の先輩って部分だけは合ってるな」
「小ざかしい」
白い顔で無表情に孝子はぼそりとやった。
「まあ。理解できないこともない、が」
「どういう意味かね」
「お前はおっかない、という意味だがね」
「あーあ。せっかくいいこと教えようと思ったのに。やめた」
「なんだよ」
「教えない」
椅子に座っている孝子の肩を麻弥はふわりと包んだ。
「愛してる。教えろ」
「気持ち悪い」
噴き出した孝子に、麻弥も呼応している。
「私も気持ち悪い。早く教えろ」
二人がじゃれていると、わざとらしいせき払いが聞こえた。開きっ放しだった扉から春菜が顔を半分だけのぞかせている。
「初めて艶っぽい場面を目撃してしまいました」
「あーあ。私たちの秘めごとを知ってしまったか。おはる、消されるよ」
「命だけは」
「黙ってれば、今までどおり生活できるがね」
笑いながらのやりとりを経て、春菜も室内に入ってくる。レザネフォル発の一件を語り終えたところで、孝子は再びアーティの動画を再生した。
「これは、うまいんですか?」
「まあまあ。私も人を論評していいレベルじゃないけど」
「そんなことはないです。お姉さんは私の知ってる中で一番歌のうまい人ですよ」
「だったらアーティがうまいかどうかもわかるでしょう」
「まあまあですね」
奇妙な問答に麻弥は天井を見上げている。
「この歌は、アーティの持ち歌なんですか?」
「さあ……。違うとは思うけど。最近の歌は詳しくないから。よし。ご飯に行こう」
再生を途中で止めて、孝子は立ち上がる。
「ところで、いいことって、結局、なんだったんですか?」
部屋を出かけていた春菜が振り返って孝子を見た。
「ああ。そうだった。エディさんに剣崎さんを紹介したんだった」
「ええ!?」
「岡宮をプロデュースする剣崎龍雅は凄腕の音楽家。むしろ剣崎龍雅こそ岡宮の本体。岡宮はただの楽器みたいなもの」
「……お前、紹介した、っていうより、エディさんの興味を剣崎さんに向けようとしただけだろ」
「そういう言い方もあるかもね。どちらにせよ、麻弥ちゃん、剣崎さんに伝えておいて。うまく回れば世界の剣崎さんになるかも、って。ただ、一つ注意。まだ海のものとも山のものともつかない話なんで。茶飲み話ぐらいで」
「うん」
「お姉さんも優しいですね。正村さんと剣崎さんのコンタクトの機会をつくってあげて」
「おい」
「いやー。機会なんてつくらなくても、最近は、麻弥ちゃーん、とか呼ばれて、うまくやってるはずなんだけどな」
もめだした二人の脇を擦り抜けつつ言い置いて、孝子は部屋を出ていく。
「えっ。いつの間に、そんな関係に?」
「おい、待て」
「待たぬ」
追い掛けようとした麻弥だが、春菜に捕獲されて悲鳴を上げた。
「正村さん。詳しく聞きましょう」
「ない。なにもない。……あ。雨、降ってきたんじゃないか」
耳を澄ますと、かすかに雨のさざめきが聞こえてくる。それも、すぐに別の音に取って代わられた。組んずほぐれつとやり合う麻弥と春菜の騒音だ。
「おーい。早く来ーい。お腹がすいたぞ」
麻弥が孝子の部屋を訪ねたのは、孝子がなかなか出てこなかったせいだというのに……。自分の行いを遠い棚の上に放り投げた女の声がLDKから届いた。