第一六〇話 私のために鐘は鳴る(一二)
レザネフォル市の北側に広がる丘陵に、ミューア家の人たちが住むゲーテッドはある。両側に緑をたたえたなだらかな坂道を上る途中、エディが不意にクラクションを鳴らした。
「シェリルだ」
振り返ると、走り去っていく赤い車が見えた。
「帰ったのかな。シズカサンのパーティーに、アートは誘わなかったのかな……?」
静のエンジェルスとの契約を祝って、夜にはシニアとジェニーがパーティーを開いてくれることになっているのだ。事情は、ミューア邸に戻ったところで判明した。シェリルは夫と娘を連れて、また戻ってくるという。
リビングでは美鈴、アーティ、そしてシニア、ソファでくつろいでいる。一方、キッチンではジェニーが大わらわだ。
「……ジェニー。手伝うよ」
「いや。シズカサン、いいんだ」
隣のエディが言う。
「キッチンでのマムは女王さ。命令がない限りは、僕たちは何もしなくていいんだ」
「おかげでジュニアもアートも、リンゴの皮もむけないような子に育ったがね」
「子供の成長を願うより自分の心の安らぎを求めた、駄目な母親だったのよ。私は」
まずい手つきを見ていると、いらいらして仕方がない、そうだ。家事はからっきしの自覚がある静は、おとなしくソファ組に加わることにした。
「GT11に行ってきたよ」
「お。何か買ってきたの?」
用具の使用契約について話をしたところ、美鈴の目の色が変わった。
「うわ、うらやましい……! 個人での使用契約とか、日本の女子に多分いないよ!」
「ミスズは違ったの……?」
「ウェヌスはチームで契約してた。……あああ、いいなあ!」
しなだれてくる美鈴を受け止め、静はぽんぽんと背中をたたく。
「ところで、どんなデザインにしたの? 見せて」
スマートフォンで撮っておけばよかったのだろうが、そういうことに気が付く静ではない。美鈴につつかれていると、エディがスマートフォンを差し出してきた。静がデザインしたシューズが表示されている。デレクに送らせたという。
「いいじゃん!」
アーティ、シニアものぞき込んでくる。
「青と白のバランスがいいな」
「なかなかね。でも、私のほうがかっこいいわよ」
そういえば、と静はデレクのせりふを思い出していた。
「ねえ、アーティ。デレクが、真の世界に一足はアートだけ、って言ってたけど。どういう意味なの?」
にやり、とアーティがした。待ってました、そんな印象の笑顔だ。ぴょんと立ち上がると、アーティは二階に駆け上がっていった。すぐにシューズの箱を抱えて戻ってくる。
箱の表には手書きで「ArtiMa」とある。
「……アルティマ?」
「そう。ultimateからの造語だよ」
エディが大文字で書かれた「A」と「M」を示しながら言う。これについての説明は不要だった。アーティの頭文字である。
「これが真の世界に一足よ」
箱の中には白いソールに黒いアッパー、甲とくるぶしの太いベルトが印象的なハイカットのバスケットシューズが入っていた。静の記憶と、だいたい一致している。
「普通に見えるけど。高級な素材でも使ってるの?」
取り出したシューズを眺めながら美鈴が問うた。
「五〇〇万ドルのソールを使ってるよ」
失笑しながらのエディの言葉に、静と美鈴はぎょっとなる。
「エディ、本当に……?」
「するわけないじゃない。全部で一〇〇〇ドルぐらいってデレクは言ってたわ」
それでも十分に高い。バスケットシューズの値段ではない。アーティがLBA入りする際、世界最大手のスポーツ用品メーカー「HONOR」から、五年総額五〇〇万ドルという条件の使用契約が提示されたという。これが「五〇〇万ドルのソール」の由来だ。しかし、アーティのシューズはGT11の製品である。HONORの製品ではない。
「私のシューズが欲しい。私だけのシューズよ」
ルーキーが専用モデルを要求し、しかも、シグネチャーモデルの販売は許さない、というのだ。当然の帰結としてHONORとの交渉は決裂した。
「仕方ない。デレクに頼んで、あいつが使ってる工場で生産することにしたんだけどね。あいつもバスケットシューズのソールなんて作れない。日本のアウラにソールを提供してもらって、それを使ってるんだ」
「あ。本当だ。これ、アウラのソールだ」
シューズを裏返して、美鈴が言った。アウラとは桜楽繊維工業株式会社が展開するスポーツアパレルのブランドである。日本の企業との交渉には、定めしエディの八面六臂の働きがあったことであろう。
「てことは、GT-11のシューズは、ほぼアウラのシューズ、なわけ?」
「そうね」
「運命的。私、シューズはずっとアウラなんだ。シズカのシューズも、そうじゃない?」
「はい。私もずっとアウラです。シューズの変更の影響も最小限になりそうで安心しました」
「それだよ。つまり、私とGT11の相性もいい、ってことだな!」
「はあ」
立ち上がった美鈴は、腰に手を当てて、胸を張っている。概して機微に通じない静だ。美鈴の高ぶりを理解できないまま、ぼんやりとするのであった。




