第一五九話 私のために鐘は鳴る(一一)
レザネフォル入りした当日を静養に当てた静は、翌日からワークアウトへの参加を開始した。シェリル・クラウスとも約半月ぶりの再会である。
「シズカサン。そろそろ準備して」
ワークアウト最中の午後二時、エディがジムに顔を出した。この日は、仮だったエンジェルスとの契約を正式に結ぶという予定が入っていたのだ。
「はい。じゃあ、行ってきます」
同行は正式にエージェントとして契約したエディのみだ。美鈴とアーティは引き続きシェリルとのワークアウトである。
「ジェフによろしく」
美鈴が手を振る。初日の顔出しであいさつは済ませているという。
移動に際して静は、シニアの車に乗せてくれるよう、エディに頼んだ。ミューア家にはアーティのクーペ以外に、エディのオートバイとシニアのSUVがある。前者は論外として、後者は乗降用のドアが四枚あって車高も尋常だ。二枚しかドアがなく、車高も低いアーティのクーペよりも乗り心地は優れているはずである。
「アーティ、昨日もこっちで迎えに来てくれたらよかったのに。あの車、天井が低くて、乗りにくいんだよ」
十分な広さの助手席に収まった静は愚痴った。
「そうだね。THI-GTは、ちょっと乗りにくいかもね」
妹同様に丁寧な運転をするエディが応じた。
「ちょっとじゃないよ、エディ。だいぶ、だよ。特に私は、三人以上だと絶対に後ろになっちゃうんだもん」
「僕に一番に連絡をくれたら、次は僕が迎えに行くよ。アートだと、またTHI-GTだ。アートは、この車が嫌いなんだよ」
「どうして……?」
「この車は電気自動車さ。乗り心地が気持ち悪いらしい。THIの素晴らしい技術が理解できないなんて、哀れなアートだ」
言われてみれば、常の車とは、少し異なる乗り心地のような気が、しなくもない。車に興味のない静では確たる評価は下せなかった。
「……エディは、THIが好きなの?」
車の話題と距離を置くため、静は、まだ付いていけそうなTHI――高鷲重工業株式会社の名を口にした。
「うん。世界一の技術を持った会社だよ、THIは。僕のモータサイクルもTHI製だよ」
車の話題とは距離を置けたが、今度はオートバイか……。次から次へと苦手分野が襲来する。
「シズカサンは、日本では? 車か、モータサイクルかは?」
「なんにも。免許、持ってないよ」
「免許を取ったらTHIの車かモータサイクルをお薦めするよ」
エディによる閉口のTHI談議はTHIセンターに到着するまで続いた。そういえば、ここも、THI、だ。
「エディ。ここのTHIは高鷲重工のこと?」
「そうだよ。ネーミングライツだ。前は、レザネフォル・スポーツ・サイエンス・センター、かな。そんな名前だった」
エンジェルスのオフィスが入る旧レザネフォル・スポーツ・サイエンス・センターこと現在のTHIセンターは、巨大な複合スポーツ施設である。バスケットコートの他に、スケートリンク、一般も利用可能なジム、ショップゾーン、そしてオフィスエリアで構成されている。最上階のオフィスエリアに入ると、エンジェルス球団社長のジェフことジェフリー・パターソンが二人を出迎えた。時間に合わせて、エレベーターの前で待っていたという。エディにより十分な内交渉が行われていたおかげで、契約は滞りなく成立した。オフィスに滞在した時間のほとんどは雑談に費やされた、といっていい。
続いてエディが静を連れていったのは、GT11のショップだった。以前に申し出を受けて、保留していた用具の使用契約を結ぶためだ。ショップの扉には「Closed Today.」のプレートが掛かっていた。営業時間内だが休みだろうか、と見ていると扉が開かれ、オーナーデザイナーのデレク・アーヴィンが顔を見せた。
「ハイ、シズカ。待ってたよ」
「ハイ、デレク」
「二人か。アートとミスズは一緒じゃないのか?」
「デレク、ミスズともう会ったの?」
「ああ。アートと一緒に来た」
「そうなんだ。ミスズはアーティたちとワークアウトしてるよ」
「そうか」
デレクはショップの奥、オフィススペースに二人を通した。オフィススペースは六帖間ほどの広さに大きなワークデスクと、カラーズのSO101に似た構成だった。ワークデスクの上にパソコンがあるのもSO101と同じだ。ただ、こちらはデスクトップパソコンである。
「まずはサインをしてくれ。そしたらシューズの型を取ろう」
静はエディの助言を受けながら示された契約書に署名する。
「オーケーだ。よろしく、シズカ」
「よろしく、デレク」
握手が済むと、次はシューズのための足型測定だった。デレクがワークデスクの下を指した。黒光りする箱がある。足型測定器だ。測定器からは細いケーブルが伸びていて、これがパソコンにつながっている。測定器が引き出され、その前に椅子が据えられた。
「シズカ。座って、足を入れてくれるか。裸足だ」
測定器の上部には、ぽっかりと穴が開いている。デニムパンツの裾をまくり、靴と靴下を脱いで、静は右足を測定器に入れた。……本音を言えば、慣れた日本製のシューズを使い続けたい静ではあった。アーティの猛プッシュに逆らえず、流されてきてしまったが。こうなっては、オーダーメードの製品が自分の足に合ってくれることを祈るのみである。
「じゃあ、そのまま」
なにやらデレクはパソコンを操作している。三〇秒ほど経って、次は左、と言われ静は従う。そして、再び三〇秒。
「よし。済んだぞ。今のデータを工場に送って、シズカの足型に合わせてシューズを縫うんだ。最優先にやらせる。一週間ぐらいでできるだろう」
アーティとGT11とのコラボレーションメニュー「TRANCE-AM」が誇るフルオーダーシューズは、その高価格にもかかわらず数カ月の待ちが発生する人気商品という。
「見てくれ」
手招きに、靴下を履いている途中だったが立ってデレクの横に向かう。パソコンの画面にはバスケットシューズの線画が表示されていた。
「GT11のバスケットシューズは一種類、ミドルカットだけだ。ただ、モデルは同じでも足型に合わせての縫い上げで世界に一足の専用品になる。……まあ、真の世界に一足はアートだけだが」
「アーティのって、いつも履いてる黒い……?」
黒いハイカットで、ベルトが付いていた、ような……? シューズに興味のない静なので、そもそも目に入っていない。それにしても、そこまで目を引くデザインでなかったことは間違いない。
「アートに聞いてみてくれ。きっと誇らしげに話すさ。そうだ。色はどうする? 自由に、といってもパーツごとだが、色を配せるんだ」
どうする、と唐突に言われても、だった。うんうんとうなって、ふと思い出したのが孝子の愛用している靴だった。運転用とかで、なかなか特徴的なデザインをしていた、気がする。ベースは青で、黒と、それから白も、あった、気がした。
実際の孝子の靴は、インディゴ一色で、ソールが黒というものだった。静の渾身は、存在しない「白」を大胆に配してしまい、全く似ても似つかぬものに成り果てている。何か違うような、と思いつつもエディとデレクに好評だったことで、静はそのまま発注するのだった。間違いに気付くのは数カ月先である。




