第一五一話 私のために鐘は鳴る(三)
元々、市井美鈴に海外挑戦の意志は皆無だったという。やってやれないことはないだろう、という自負はあったが、今の――チームで、全日本で、中心選手としてちやほやされるような――環境を捨ててまで、である。言葉は悪いが、安穏とした気持ちで日々を過ごしていたのだ。故に、昨年末、静がLBAに挑戦するという報に接したときも、難しいだろうな、と軽く受け流していた。
そして、年始の全日本選手権での一戦、だった。ここで春菜に手ひどい仕打ちを受けたことで、ああ見えて気の強い子、と恩師の評を受けた美鈴の性根が燃えさかりだした。彼女の希望はウェヌス退団だ。自由の身となって、夏季はアメリカ。冬季はヨーロッパ。これらを転戦して腕を磨く。日本で北崎春菜に対抗する力を身に付けることは不可能、と主張しているらしい。
対するウェヌススプリームスの答えは、待て、だった。チーム最高の人気者を、やすやすとは手放せない。アメリカに行ってもいいが、冬には日本に戻れ、である。この方式で夏季開催のLBAに挑戦した先達は、過去に何人か存在した。時間的な余裕もない。LBAの開幕は五月に迫っている。一年待てば、その間に入念なプロモーションをLBAに掛けることができる。また、国際試合に出場し、自らの活躍でプロモーションとすることも可能だ。だから、待て。
対する美鈴の返事は、待たない、だった。
「わからないんですが」
声に、皆が一斉にその方向を向いた。春菜である。
「山寺さんは、私に美鈴さんのことを伝えて、何をさせるつもりだったんです?」
「あ、ああ。聞いていたかな。松波先生に仲介をお願いして、断られてるんだ。北崎さんにも、お願いしてもらえないか、と思って。北崎さんの話なら松波さんにも聞いていただける可能性がある。松波さんの話なら市井も受け入れる可能性がある」
「そんなことしませんよ。だいたい、私にちょっとせがまれたぐらいで態度を変えるような人なら、九年間も一緒にやっていませんし。ところで、そういうおつもりだった山寺さんは、美鈴さんの邪魔をする人なんですね」
詰まった山寺だったが、大きく息を吐いて盛り返す。
「無謀だ。神宮寺さんだって各務さんのルートを頼って、去年のうちに準備を始めていたでしょう。LBAの開幕まで二カ月しかない。間に合わないよ。市井ほどの選手をプレーから遠ざけるなんて、あってはならない」
「ルートさえ選べば、二カ月もあれば十分でしょう」
「……無理だ。ルートはない。ウェヌスを飛び出したら、市井は完全に孤立無援だ」
「大げさな……」
言いかけて春菜の表情が固まった。
「アジア選手権ですか。それに、今年はユニバースの予選も兼ねてましたね」
この年の八月に開催されるバスケットボール女子アジア選手権大会が、来夏に開催される四年に一度のスポーツの祭典「ユニバーサルゲームズ」の出場権を懸けた予選会を兼ねている、という春菜の指摘だ。
「なるほど。それで美鈴さんの邪魔をするんですね」
市井美鈴は全日本のスターティングガードである。確率の高いロングレンジのシュートを誇り、チームの得点源の一人と計算される存在だ。その移籍の成立、不成立にかかわらず、全日本チームが被る影響は甚大となるだろう。故に、多少、脅しておいてでも現時点での挑戦は断念させる、という意向が働いているようだ。
それまでのおうようとした様子が一転して、すくと春菜は立ち上がった。その目はらんらんと輝き、量の多い癖毛は逆立っているかのようである。
「お姉さん」
「いいよ」
「ありがとうございます」
「ちょっと電話してきます」
この間、五秒足らず。スマートフォンを片手に孝子の背がオレンジの扉の向こうに消えたところで、みさとが大きくうなずいた。把握したのだ。となれば、場を沸き立たせるのは、みさとの得意とするところだった。
「ハルちゃん! 傘と盾、振り回すか!」
「はい。ぶん回します」
これで、静と彰、そして、カラーズの社章の由来をこの日知った山寺も理解した。静を守る傘であり、盾であるカラーズを、市井美鈴のためにも使おうというのだ。
孝子が空けた席に春菜が座った。正面の山寺と視線が交錯する。
「山寺さん。美鈴さんの連絡先、ご存じですか?」
「……それは、知ってるが」
「教えてください」
「北崎さんの深く関わっているカラーズさんに、なびくかな……?」
山寺が差し出してきたスマートフォンに表示された番号を、春菜は自らのスマートフォンに入力すると、そのまま発信した。
「……あ、美鈴さんですか。春菜です。アメリカに行かれるそうですね。でも、このままだと移籍は難しい、って話を山寺さんに伺いましたよ。美鈴さん。私、今、神宮寺静さんの事務所のお手伝いをしてるんです。カラーズっていうんですが。来ませんか。カラーズさんは静さんのお姉さんが、アメリカに行く静さんのためにつくった会社です。日本のバスケとのしがらみは一切ない会社です。カラーズさんなら美鈴さんをアメリカに送り出すことができます。美鈴さん。うだうだしてる時間はありませんよ。最近、試合に出てないらしいですけど、練習はできてるんですか。英語はしゃべれるんですか。相手が私だからって身構えないで。物事の軽重を見誤ってはいけませんよ」
まくし立てる春菜に、周囲ははらはらと気をもんでいるが、遠慮会釈のない物言いは、明確な事実でもあった。
「来てください。舞浜大学です。いつでもいいですよ。……はい。わかりました。すぐに、ですね?」
ちらりと春菜が隣のみさとを見た。みさとは右手の親指を突き上げている。
「大丈夫です。お待ちしてます。舞浜大学の千鶴キャンパスです。近くまで来たら電話してください。はい。お気を付けて」
スマートフォンをワークデスクの上に置き、ほう、と一息。
「来ます」
そこに孝子が戻ってきた。
「そっちの首尾は? こっちは、ハルちゃんが市井さんに電話して、ここで会うことになったんだけど」
「松波先生にお力添えいただけることになったよ。それと、エディさんに、市井さんの売り込みをお願いしたんだけど、こっちは失敗した」
「え? なんで……」
「どんな選手ですか、って聞かれたんだけど、私、市井さんの顔すら知らないんだった」
「お姉ちゃん!」
「資料を作って送らなくちゃ。彰君、おはる、任せたよ」
「いえ。それは、うちにやらせてください。過去の市井の映像がある。プロモーション用のビデオを作りましょう」
山寺が名乗りを上げた。
「さっきまで邪魔しようとしてたのに、ですか」
皮肉たっぷりに春菜が聞き返す。
「あれは女子バスケのことを考えての行動さ。でも、急がば回れ、ということもある。うちにも協力させてほしい」
謎めいたせりふの後、山寺は電話をかけた。相手は『バスケットボール・ダイアリー』編集部だろう、市井美鈴のプレー集を特急で作成するよう指示を出している。
山寺の前にあったカップを取った春菜が、新たなコーヒーで満たして、戻す。このとき、高台の下に一枚の紙切れを滑り込ませている。紙切れは何かのレシートで、その裏には「200円」という走り書きだ。カップに手を伸ばした山寺が、これに気付いて、噴き出した。




