第一四話 フェスティバル・プレリュード(一四)
福岡行の二日目は自宅での静養となった。二日目、というか、一日目の昼下がりから引き続いて、だ。初代と二代目の親友どものせいだった。連中、泣き腫らした目をして、外出が困難なのである。懐かしい場所を、いろいろと回ってみたかった孝子としては、迷惑千万であった。かといって、文句を垂れるわけにもいかぬ。二人の涙の理由は響子の激情と行正の純情に対する感動なのだ。故に、二人をほったらかしにして、一人でうろちょろすれば、ともできなかった。激情と純情によって育まれた当事者の孝子だ。せいぜい連中に付き合って神妙な顔つきをしているしかない。
暇を持て余した孝子が向かったのは、岡宮家の奥まった部屋に置かれていた電子オルガンの前だ。音楽教室の講師をしていた亡母の持ち物である。自宅での練習用に、と勤務先のお古をもらってきた、と聞いていた。
懐かしさに、一曲、演奏してみた。思わず苦笑いの出る演奏となった。一〇年以上も遠ざかっていたのだ。衰えて当然、といったところだが、どうにも妙な手応えだった。手も足も滑らかに動くのに、やたらとミスタッチが多い。やがて、思い至った。身体の成長だ。福岡で暮らしていたころと比べると、現在の孝子は二〇センチ以上、背を伸ばしている。となれば、ずれさえ吸収できれば、昔と同じに弾けるはずだ。
「お邪魔します」
ボリュームは絞っていたが、気付かれたようで、麻弥と倫世が部屋に入ってきた。両者とも、相変わらず腫れぼったい目をしている。
「お前、そんなこと、できたのか」
相当、ましになった二回目についての麻弥の感想だった。
「音楽が得意なのは、授業とかで知ってたけど」
「お母さんが講師をやっていたの。直伝」
「おお」
「ちなみに、たむりんも習ってたけど、いまいち」
「うるさい」
「お前、なんかいろいろと荒いし。こういう細かいのは、苦手そう」
「うるさい、って言ってるだろ」
「一〇年ぶりだったけど、まあまあ、できたね」
「今ので一〇年ぶり? 舞浜では、やってなかったよな……?」
「持っていってやりたいな、とは思ってたんだけど、あの部屋じゃ置けないし」
「……置けないな」
麻弥も孝子の自室の狭小さは見知っている。
「増築を、って何度も言われて、そこで、お言葉に甘えてたら、できたとは思うけど。そこまでして、って思ってるうちに、忘れてた」
「うん」
「麻弥ちゃんや」
「何?」
「ちょっと、久しぶりに触って、目覚めたかも。海の見える丘に持っていったら、駄目かな?」
「いいんじゃないか。一応、おばさんに許可をもらって」
「なら、いい。いっそ新しいのを、とか。演奏を聴きたい、とか。そういうのは、嫌なの。こっそりやりたいの。君のイラストと一緒だ」
ルームメートとなって、ばれるまで、ひた隠しにしていた趣味を指摘して、麻弥を黙らせる。
「お。正村はイラストを描くのか。どれ。私がモデルになってやろう」
「え? ああ……。紙と鉛筆があったら、描くよ。それより、孝子。結構な大物だし、家を借りてもらってる身としては、勝手はしないほうがよくないか?」
「ん? お前たち、鶴ヶ丘とかいうところにいるんじゃないの?」
こちらに来てからの会話は、もっぱら孝子の幼少期に集中していて、そういえば倫世に海の見える丘での暮らしは語っていなかった。
「海の見える丘、ってところで、私たち、優雅に一軒家暮らしをしてますのよ」
「なんか、小じゃれた名前が出た。招待しなよ」
「いいよ。私たちが帰る時に、一緒に来る?」
「ちょっと待って。実は、私、おかみ以外にも、舞浜とは、ちょいとした縁があってね。そっちの都合も聞くわ」
言い残して、倫世は別室に去った。電話をかけるのだろう。
「誰だ……?」
「彼氏、らしい。高鷲重工の野球部にいるんだって」
「へえ」
野球には全く興味のない二人だ。会話はすぐに終わった。
「残念。実業団のシーズンが始まってて、時間がない、って。あ。正村。私、舞浜に彼氏がいてな」
戻ってきた倫世は眉をひそめている。
「聞いた」
「うん。まあ、今回は、あいつは、いいや。で、おかみ。そいつ、送るんだったら、普通の宅配便じゃ無理でしょ。頼んで、すぐに取りに来てくれるんだったら、私も二人と一緒に行く。時間がかかりそうだったら、私がこっちで手続きをして、それが済んだら行く」
「お願い」
突撃を始めた二人を見て、麻弥はもごもごしていたが、無視である。
なお、このときの倫世の舞浜行は変則となった。二人と同行し、電子オルガンの荷送りはせず、という形だ。宅配業者に申し込みをするも、繁忙期の真っただ中で、荷送りは四月にずれ込む、と返答されたのである。年度が替わると、それぞれ通う大学、短大の講義が始まる。時間の余裕は三月中にしかない。電子オルガンは先送りにするしかなかったのだ。
こうして、孝子と、新旧の親友との交流は、舞浜に舞台を移すこととなった。