第一四四話 加速度(一一)
帰国から数えて翌々日の午前中、静は初めて舞浜大学にSO101を訪ねている。一日を空けたのは、この前日がカラーズ合同会社の登記完了予定日だったためだ。孝子、みさとが斎藤夫妻と共に関係各所を駆けずり回ることになるので、応対できる者がいない、と遠慮を求められていた。
「うわ。狭いね」
オレンジの扉をくぐっての開口一番に、静はみさとの体当たりを受けている。それは、そうだろう。六帖間に孝子、麻弥、春菜、みさと、尋道と在室しているところに、静と美幸が加わったのだ。
室内の中央に鎮座するワークデスクの上には、ノートパソコンが二台、小型複合機が新たに加わっていた。パーチェシング・マネージャーこと風谷涼子の手により、今朝方に届けられたものだ。
ノートパソコンの画面にはカラーズの公式サイトが表示されている。仮だった春菜のイラストは静のイラストに切り替わっていた。今は顔のアップだが、いずれエンジェルスの許諾を得てユニフォーム姿に描き直す。これはカラーズ専属イラストレーターの正村麻弥氏の言だ。イラストの傍らには、尋道の手によって清書された傘と盾の社章が、控えめに配されている。
尋道が椅子を引いて静に勧めた。
「昨日、お預かりした写真で、早速、記事を書いてみました。文責は正村さんです」
「おい」
「郷さんって、隙あらば逃げようとするよね」
「下っ端なので」
「……私じゃないみたい」
ノートパソコンをのぞいていた静が言った。自分が撮影してきたレザネフォルでの写真にコメントが添えられて、カラーズ公式サイトの「DIARY」に載せられている。
「何か、おかしかったか?」
「ううん。私、こんなに丁寧なしゃべり方じゃないし」
ですます調を基調に、時に過剰なまでに整ったコメントについての指摘だった。
「ああ。まあ、相手のあることだしな。言葉遣い一つで面倒なことにもなりかねないだろ。そこは気を付けたつもり」
「そしたら、今度は、よそよそしい、とか、親しみが持てない、とか言う人も出てくるでしょうけど、そこまでは相手にしていられません。これがベストという判断です」
普段の言動も、この路線でお願いしたい、と尋道が続けた。カラーズの方針として取材は極力、制限するが、公式の会見まではカラーズの力も及ばない。
「自分については謙虚に、相手については激賞で。プライベートな質問には答えなくていいです。エージェントに制限されている、としてください。こちらはこちらで、イメージ戦略です、とでもうそぶきます。カラーズの名を、傘として、盾として、存分に使ってください」
傘と盾の「アンブレム」の考案者がにんまりとする横で、尋道が、ただ、と一息を入れた。
「静さんの目指すところのためには、今、言った方向性が一番だと思っているんですが。ただ」
再び、ただ、である。
「これは、だいぶ先の話になると思いますけど、静さんが現役を退いた後、ですね。その後もバスケットボールに関わっていくつもりがあるなら、片っ端からなぎ払っていくのも、どんなものか、と。デビューもまだなのに、こんな話をしてすみません」
一礼する尋道に、静は首を振って応えた。
「それは、大丈夫です。私、自分でプレーする以外は興味ないです。春菜さんに勝つことしか考えてません」
「わかりました。ですが、今の言葉は他言無用で。プロとしての心構えが、なんて言ってくるやからが、必ず出てきます。全て、カラーズに任せてください。静さんがバスケットボール以外のことに関わらないのはカラーズの意向である、と強力に押し出します」
SO101は郷本尋道の独擅場と化した。その後も、プロバスケットボールプレーヤーのありように関する言及が続き、その重箱の隅をようじでほじくるがごとし細かさに、一同はあきれ返っている。
「よくも、まあ、そこまで思い付くな……」
「それでも、僕が言った以上のことが、今後、きっと起きると思いますよ」
「気を付けないとね」
会話が収まったところで、静がすっくと立ち上がった。そのまま孝子たちに向かって、深々と頭を下げる。
「カラーズのみなさん。神宮寺静を、どうぞよろしくお願いします」
「うん」
「おう」
「任せなさい」
「はい」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
公式サイトの更新作業中だった面々を残して、静は美幸と共にSO101を後にした。インキュベーションオフィスの駐車場にとめていた美幸の車に乗り込んて、ふう、と一息だ。
「……なんだか、大ごとになっちゃったな」
「私に相談しておけばよかったのよ。そうすれば孝子さんに無駄にお金を使わせることもなかったのに」
静は口をとがらせて、そもそもの原因となった運転席の母親を見た。
「あのね、お母さん。私がお姉ちゃんに頼ろうと思ったのは、お母さんに頼むと危ない、って思ったからだよ」
「それは、どういう意味で……?」
「お母さん、電話に出るのが面倒だ、って電話の線を抜いたでしょう。あれを見て、お母さんは危ない、って思ったの」
静のLBA挑戦が公となったときのことだ。取材の申し込みを断った美幸に、しつこく食い下がった者がいた、という。これが全ての発端だった。業腹となった美幸は、電話応対を避けるために電話線を抜いた。いくらでも他にやり方はあるだろうに……。母の短絡さに不安を抱いた静は孝子を頼った。頼られた義姉は、いざ報恩、と異様に発憤して直情のままに走りだした。そこから人の縁が連鎖して、ここに至った。思えば、全く奇遇だ。
ちなみに「新家」の固定電話に電話線は戻されている。さすがに解約は思いとどまるように、と夫に言われた美幸が選択したのは、電話代行サービスとの契約だった。不要不急の受信を選別させることにしたのだ。
「迷惑電話が完全になくなったわ。もっと早くに契約しておけばよかった」
使用感はすこぶるよろしいようである。




