第一四二話 加速度(九)
約二週間のレザネフォル滞在を経て、静は帰国した。早朝の到着ロビーで待つ出迎えの前に現れた静は、出国時に引いていたスーツケースもなく、全くの軽装である。対照的に隣の伏見由香は、もこもこと着膨れして、ほぼ真ん丸になっていた。搭乗橋の寒気すら寒がりの彼女は堪えられなかったのだ。
伏見は美幸に帰国のあいさつを済ませると、出迎えの一行から離れていった。次のレザネフォル直行便の時間まで空港で粘ってのとんぼ返りという。
「またね。ゲーム、必ず見に行くよ」
外気に触れたくない。母の主催する祝賀会に誘っても、頑として譲らなかったボディーガード兼通訳に、静は深々と頭を下げたのだった。
「静お姉ちゃん、荷物は?」
「アーティのうちに置いてきた。どうせ、また来るんだし、いいでしょう、って」
そのアーティは、静の帰国に際して、大いにむくれていた。
「のんびりしてる場合じゃないわよ。すぐにシーズンが始まるのよ」
などと、脅してきた。
「次はいつ来るの、って聞かれて、三月、って言ったら、お前、なめてるのか、って顔で見られた」
「かなり強烈な人みたいね」
これは斎藤みさとだ。出迎えには孝子以下神宮寺家勢の三人とカラーズ勢の三人、計六人が駆け付けていた。なお、午前五時という飛行機の到着予定時刻を聞いて、郷本尋道は欠席している。
「はい。あんな人は初めて」
「傾向として、アメリカの人は自分の意見をはっきりと口にする、って話だけど」
「うん。そういう意味では、ザ・アメリカ人でした」
帰宅し、静の短い仮眠の後、カラーズの面々に美幸を加えての会議が実施された。「新家」のLDKには、朝は不在だった尋道の姿もある。入れ替わりで消えたのは登校した那美だ。「新家」のダイニングテーブルは六人掛けで、静とカラーズの五人が着席している。美幸はキッチンに立って見守る姿勢を見せている。
話の口火を切ったのは静だ。アメリカでの活動に関する提案があるという。この日の時点で、静はまだエンジェルスとの契約に署名していない。セレクションに合格した場合、契約書はいったん預かることとし、日本の法律家による精査を経た上で、改めて契約する、という当初からの予定だった。これは美幸の意向で、エンジェルスも本国法では未成年扱いの静だけに、その旨は了承している。英文による契約の研究は相良一能弁護士が担当する、という美幸の補足である。
ここまでは、日本に生まれ、暮らしてきた静としては当然の流れだったのだが、その認識を大きく揺らがせる一件が起きた。エンジェルスのセレクションに合格した静に、あのGT11のデレク・アーヴィンが連絡を入れてきた。用具の使用契約を結ぼう、というのだ。無論、静の存在に価値を見いだしてのことではなかろう。新興のアパレルメーカーを一個のブランドに高めてくれた、GT11の最重要顧客アーティ・ミューアへのへつらいなのは明らかだ。
ありがたい申し出だが親の許可をもらって、と返答した静の耳に、デレクの、さも不思議そうな声がスマートフォンから届いた。
「シズカは十八歳だろう……? どうして親の許可がいるんだ……?」
日本では二〇歳で成人だ、と伝えたところ、そういうことなら、とデレクは引き下がったが……。
「デレクの口調が、はあ? みたいな感じで。正直、ちょっと嫌な感じだったんだけど。でも、カリフォルニア州だと成人年齢が一八歳で、日本の成人年齢を知らなかったら、ああいう反応になるのかな。いい年して、親離れしてないのか、って」
俗に契約社会と呼ばれるアメリカで、今後も何かにつけて署名の機会が巡ってくるだろう。そのたびに「はあ?」とされたのではたまらない。しかし、何もかも決断するには、自分の英語力も判断力も、全く信用が置けない。
そこで、エディ・ミューア・ジュニアだ。最初こそ、あまりの日本びいきぶりに恐れおののいたものだが、滞在の間にエディへの静の評価は一変している。いざとなれば日本語が、だいたい通じる。日本的な機微を、ある程度まで理解してくれる。気分屋の妹と違い、ゆったりと落ち着いた人柄で……ただし、日本に関することは例外となるが。これらの安心感故に、アメリカでの活動のアドバイザーとしてエディを頼りたい、というのが静の提案の内容だった。
「賛成!」
静の提案に、真っ先に反応したのはみさとだ。
「あそこまで日本が好きで、日本語も達者なアメリカ人の実務家って、そうそういないよ。逃しちゃ駄目だ」
「実務家……?」
「エディ・ジュニアさんは弁護士の資格をお持ちで、アーティさんのエージェントや、エディ・シニアさんとジェニファーさんが設立した基金のマネージャーを務めていらっしゃるんです」
「ジェニファーさんのプロデュースしたレストランも、裏で仕切ってるのはジュニアさんなんだよね」
「そう。そうなんです。エディが、ミューアさんちの大黒柱で。シニアも、ジェニーも、アーティも、エディのことをすごく信頼してて。私もエディに見てもらえたらな、って考えたんです」
「これ以上ない、適任者だと思います」
「……お前たち、全部、それってSNSとかで拾ってきたの?」
自らの問い掛けが一気に膨らみ、付いていけない麻弥は、眉間にしわでうめいた。
「おう。SNSとか、公式サイトとか」
「英語、読めたのか……?」
「あんまり読めないけど、頑張ってるよ。郷さんは?」
「洋楽を聴くので、読むほうは、よっぽど詩的な表現でもなければ、だいたい。しゃべるほうは、かなり怪しいですけど」
「洋楽か……。てことは、お前もいけるんだよな?」
「Guess who I am」
孝子の口調と表情を考慮して、最適な意訳を施したならば、
「私を誰だと思っているのかしら」
といったあたりだったろうか。




