第一四一話 加速度(八)
翌二月一〇日の午後四時に、神宮寺美幸と那美が舞浜大学千鶴キャンパスに姿を見せた。美幸らの来訪は、静のセレクション合格を受け、レザネフォル・エンジェルスへの仲介を果たしてくれた各務と、この時点まで静の広報として貢献してくれた野中主務に、礼を申し述べるためであった。
孝子、麻弥、みさとが駐車場に到着した美幸の車を出迎える。一様に改まった表情で、それを見た那美は、ぷっと噴き出す。
各務と野中主務への謝礼の話が出たのは、昨夜の契約の後だ。それはカラーズで、と言った孝子に、美幸の一言が飛んだ。
「孝子さん。せんえつよ」
さして大きくも、激しくもなかった言葉は、しかし、孝子の肩を強く打った。
「そうそう甘い顔ばかりもしてられないしね。ここは、はっきり言わせてもらいます。親を軽く扱わないでちょうだい」
ほほ笑みながら見据えられて、孝子以下四人がうつむいて縮こまった。ここにきて言外に会社設立の独断専行をとがめられたわけだ。このときの緊迫が、今の今まで続いている。那美は、そんな状況を笑ったのだった。
「笑ったな。妹ちゃん」
「うん。三人ともびびってて、すごくかっこ悪い」
「こやつ」
みさとに抱きすくめられて、那美は明るい笑声だ。わずかな時間ですっかりなじんでいるのは、双方の陽性の気質故である。
「お母さん。斎藤さんが反省してない」
「せっかんね」
軽妙な掛け合いで、ようやく凝り固まっていた孝子と麻弥の表情も和らいでくる。
各務、野中主務との面談は短時間で終わった。静の帰国後に催す祝宴に出席を乞い、その場で深謝を余すところなく伝えるつもりの美幸なのだ。予告なしに大仰な進物を渡されたところで、先方も困惑するだろう、という配慮もある。
次に一行が向かったのはインキュベーションオフィスのSO101だ。美幸と各務、野中主務との面談に立ち会った春菜も、部活を抜け出して同行している。部屋には郷本尋道がいた。昨夜の彼は、アルバイトがある、と断り、契約の場には不在だったので、美幸とは初顔合わせである。美幸へのあいさつで尋道が強調したのは、助言を求められたので提案した、旨だった。
「……なんか、郷さん、他人行儀じゃない?」
「お叱りがあった、と聞いてますので。起業については僕は全く無関係、と知っていただく必要があったんです」
「おいおいー。ここまで関わっておいて、そりゃないでしょうよ」
「ずるい男だ!」
「そうだ! ずるい男だ!」
那美とみさとの合唱を受けて、尋道は二人の背後で笑っている孝子に視線を移す。
「神宮寺さん。贈賄します。この二人を黙らせてください」
「何をくれるの?」
尋道は羽織っていたジャケットのポケットをまさぐり、小さな箱を取り出した。
「あ」
孝子が小箱を開いてつまみ上げたのは指輪だ。
「……これは、カラーズのエンブレム? 一葉さん?」
「はい。起業のお祝いに」
「ケイちゃん、見せて!」
那美の手のひらに置かれた指輪は、太めのリングアームにカラーズの「アンブレム」が彫られているものだ。
「かわいい! 郷本さん、私にも贈賄して!」
「わかりました」
ここで美幸が、ずいと出てきて、那美を抱え込んだ。
「厚かましい子ね。時々、血のつながりを疑いたくなることがあるわ。郷本君、一葉ちゃんに静の分もお願いしたい、って伝えてくれる? お代は、改めて伺ったときにお話しさせて」
「お母さん。お代を払ったら、贈賄にならないよ」
「孝子さんのものは、ご祝儀として頂戴するけど、二人の分はちゃんと払います」
「伝えておきます」
指輪は那美の手のひらから、みさとの右手の薬指に移っていた。
「郷さん。一葉さんって、アクセサリー作るんだ? 趣味?」
郷本家に押し掛けた経験のあるみさとは、一葉とも顔見知りである。
「いえ。プロです」
「これ、仮に買ったら、どれくらいするの?」
「二万ぐらい。割り引かせることもできますけど、言い値で買っていただいて、ロイヤルティーをカラーズに入れさせる、というのはどうです? カラーズの商標を使ってるわけですし」
「いいね、それ。私も買うわ」
「ちょっと貸して」
指輪を受け取った麻弥が、自らの左手に当てた。
「中指かな」
麻弥の左手薬指には、以前に贈られた郷本一葉謹製の指輪がある。
「重ねて使うのを考えたデザインらしいですよ。前のと一貫性を持たせたとか」
「確かに」
重ねて指にはめ、納得の表情の麻弥だ。
「……二人の指輪って、一葉さんが作ったの?」
「そう。合格祝いにもらった」
このときのみさとの反応は、その場の全員があぜんとするものだった。まるで、狂ったような大笑いである。
「……ああ、悪い。ごめん」
たっぷりと時間をたたせて、ようやく回復したみさとがわびる。
「何事だよ」
「うん……」
ここで、再び笑いかけて、みさとは口を押さえる。
「おい。いいかげんにしろよ」
「ごめん。いや、あんたたちの指輪って、おそろいで、しかも、指が指でしょ? ちょっと、誤解してた」
孝子と麻弥が指輪をはめているのは左手の薬指だ。
「なんだよ、誤解って」
「ほら。同居してたりとか、他の状況証拠もあったし。あと、ちょっと前のあんたって、マニッシュだったじゃない? やあ、勘違い、勘違い」
これで麻弥も理解したらしく、ちっ、と舌打ちしている。
「……ああ。私と麻弥ちゃんが、いい仲かも、って誤解してたの?」
苦笑交じりに言った孝子だったが、その後の春菜の発言で全てが吹き飛んでしまう。
「実は、私も昔は誤解してまして。お二人のお世話になるって決まったとき、もしかしたら艶っぽい場面に遭遇したりするかも、なんてときめいていたんですけど。全く、そんなことはなくて。何かあると、すぐに取っ組み合いを始めたりで、えらく殺伐としてるんですよ。だまされました」
爆笑の中、にんまりとする春菜の発言は、果たして場の雰囲気を保たせるため一芝居を打ったものだったのか……。それは、不明である。




