第一四〇話 加速度(七)
一方、鶴ヶ丘の神宮寺「新家」では、神宮寺美幸がキッチンで黙然としている。軽く腕を組んだまま、既に五分ほど同じ体勢である。
「お母さん。おはよう」
末娘の那美がグレーのブレザーに身を包んでLDKに入ってきた。鶴ヶ丘中学校の制服だ。朝の早い勤務医の夫は既に出勤している。
「……お母さん。具合、悪いの?」
「え? ううん。なんでもない」
否定しておきながら、朝食の準備中に、またもや表情が固形化しだしている。那美が、そばに寄ってきた。
「お母さん。私がやるよ」
「あなたに何ができるの。……ああ、那美。静から連絡があったわ。セレクションに合格したって」
「本当!?」
表情の明度を一気に上げた那美だったが、すぐに消灯させた。
「お母さん。もしかして静お姉ちゃんが合格しないほうがよかったの……?」
「違う。静が言ってきたのよ。孝子さんが、静のためのマネジメント会社をつくった、って」
「えっ! ケイちゃんが! すごい!」
「那美。会社って、なんやかやで、お金のかかるものなのよ」
「ああ」
母親の態度の理由に、那美も思い至ったらしい。
「なるほど。ケイちゃんめ。ここぞとばかりに、うちのためにお金を使おうとしてきたな!」
「那美も、そう思う?」
「思うよ。でも、仕方ない。お母さんのせい。甘んじて受け入れるしかないね」
「……どうして、私のせいなの」
「さん付けなんかして、いつまでもお客さま待遇をしてるもんだから、ケイちゃんも、かしこまっちゃうんだよ。もっと雑に扱ってれば、こんなことにはならなかった。お母さん、静のために会社作ろ、お金はお母さんが出してね、とか」
那美の低い声は孝子の真似のつもりなのだろう。
「……そんな、できるわけないでしょう」
「じゃあ、諦めて。お母さん。ケイちゃんを叱っちゃだめだよ」
「叱ったりはしないけど……。ただ、静の話だけじゃ詳細が見えないわ。今夜にでも話をしに来てくれるみたい。全ては、その時ね」
「お母さん。私も一緒だよ」
「わかった。わかった。早く朝ご飯を食べて」
那美と共に朝食を済ませた美幸は、登校する末娘を見送ったその足で、町内会の児童見守り活動に移行した。午前八時を過ぎ、登校する児童たちの姿も少なくなると引き揚げ、洗濯、掃除といった家事に取り掛かる。
昼前で一段落といったところに着信だ。スマートフォンを見ると孝子である。
「孝子さん?」
「はい。おばさま、今、大丈夫ですか?」
「ええ。……聞いたわ」
「は、はい」
「孝子さん。手ぐすね引いて待ってる。心していらっしゃい」
がくぜんと、言葉を失った孝子に、本日の夜八時、と告げて美幸は通話を切っている。那美に、叱らない、と言った以上はこけおどしだ。これで溜飲を下げた。後は虚心坦懐に養女の立ち上げたというマネジメント会社とやらを批評しよう。
夜八時。緊張の面持ちで孝子、麻弥、春菜、そして、斎藤みさとという見知らぬ女性が「新家」を訪ねてきた。自慢の養女ほどではないが、なまなかでない美貌の持ち主こそ、マネジメント会社の主軸らしかった。立て板に水で、起業の至るまでの流れを披露している。
税理士と司法書士の両親に指導を受けたとかで、みさとのやってきたことは、いちいち理にかなっていた。特に、静の引退後のこと、また、志半ばにバスケットボールを辞めざるを得なくなった場合まで、みさとが考慮していたのには、さすがの美幸も内心でうならされている。……もっとも、駄目なら駄目で、総領娘として家に入れるだけだ。故に、ここは気の回し過ぎではあった。神宮寺家の内情を知らぬみさとなので、仕方のない部分といえる。
「……わかりました。話を聞いた限り、目立った瑕疵はないようです。あなたたちの思うさまにやってみなさい」
重々しく、美幸は評した。その直後に、
「娘を、よろしくお願いしますね」
とこうべを垂れてみせる。言おうと思えば、くどくどといくらでも続けられるが、あえて控えるのも手練手管というものだった。
プロバスケットボールプレーヤー神宮寺静の、カラーズ合同会社とのマネジメント契約が、こうして成立したのである。




