第一三九話 加速度(六)
二月九日の早朝、午前四時の舞浜は海の見える丘だ。猛烈なノックの音に目覚め、自室の扉を開けた孝子に、スマートフォンが突き付けられた。麻弥と春菜である。
「お姉さん! 静さんが、やりましたよ!」
見ると、画面には赤いユニフォームを手にした静とアーティ・ミューア、シェリル・クラウス、そして、孝子の見知らぬ男性が映っていた。赤はLAシャインレッドと称されるレザネフォル・エンジェルスのチームカラーだ。ユニフォームの背には「JINGUJI」の文字と背番号「2」がプリントされている。ちなみに、男性はレザネフォル・エンジェルス球団社長のジェフリー・パターソンだ。
「……ああ。もう決まったんだ」
喜色満面の二人と比べて、孝子の表情には特に感慨もない。
「何時? 四時……。じゃあ、もう一寝入り」
「おい……。寝ぼけてるのか」
「おはるが、大丈夫、って言ったでしょう。合格するのはわかってた。二人も休んでおいて。今日は忙しくなるよ。多分、斎藤さんも朝一番で来るでしょう」
ぴしゃりと閉められた扉に、麻弥と春菜は顔を見合わせて苦笑いだ。この二人、郷本尋道よろしくエンジェルスやアーティのSNSを、何か起こりはしないかと監視していたのだった。
午前六時を回ったころには、孝子の予言どおりに斎藤みさとが現れた。
「始発か」
「おう。ベッドで、ずっとエンジェルスのSNS見てたよ」
「同じことやってるやつがいるよ」
「あんたたちもか」
「いや。孝子は寝てた。春菜が受かると言った以上、絶対に受かる、って」
「ああ……」
目を見開いて、しきりにみさとはうなずいている。
「いいね。そういうの。CEOは部下を信じないとね」
「部下じゃないでしょう。斎藤さん、食器を運んで」
みさとの来襲を見越して、四人分が用意された朝食がダイニングテーブルに並べられる。魚を主菜とした、海の見える丘のいつもの献立だ。
「今日の予定は?」
「うん。朝が済んだら、神宮寺は私と一緒に、うちの親の事務所に来て。法務局に連れていってもらって、設立登記をする。完了までは一〇日前後かな。登記の完了後じゃないと証明書の類いが取れないから、それまでは特にすることはないんだけど、私たちには一大ネゴシエーションが待っているんだ」
未成年の静とのマネジメント契約を、静の保護者に申し出て、許可を受ける。これだ。
「早ければ早いほどいい。今夜、いけそうかな」
「後で聞いてみよう」
「戻ったら、ネゴシエーションの打ち合わせをしないとね。そうだ。テクニカル・ディレクターも呼ばないとだ」
「私もご一緒できますか?」
「もち。エグゼクティブ・アドバイザーなんだし」
「……おはる。部活は?」
「こちらの話のほうが大事です」
ここで、テーブルの端に置かれていた麻弥のスマートフォンがけたたましく鳴った。
「お。静だ。なんだ……?」
スマートフォンの画面を見た麻弥が、驚きの声を上げる。
「おはよう。どうした。……ええ? いるけど、孝子が居間に持ってきてるはずがないだろ」
どうやら、孝子にかけたが出なかったので麻弥にかけた、という流れのようだ。
「……うん。知ってる。エンジェルスのSNSを、ずっと見てた。おめでとう。孝子に代わるよ」
セレクション合格の報告である。孝子、春菜と続き、最後はみさとだ。祝辞の後、みさとが口に出したのは、あのGT11の名だった。
「日本には、ほとんど入ってきてないみたいなの。カラーズで扱わせてもらえないかな、って」
静のLBA参戦に伴って、日本でのGT11の知名度も飛躍的に高まるはず、というみさとの読みだ。
「そうそう。今日ね、会社の設立の届け出に行くんだ。夜にでも、ご両親に契約のお許しをいただきに、って考えてるの。口添えしておいてもらえるかな?」
通話を終えたみさとからスマートフォンを受け取った麻弥が首をかしげている。
「お前、代理店か何か考えてるの?」
「代理店か、販売店か。GT11の規模的に考えて、そんなに大きな話にはならないと思うけど。少しでも銭になればな、って。そうだ。あんたのイラストもTシャツあたりにできないかな、って考えてるんだけど」
「はあ!?」
「SO101の家賃と電気代でしょ。サイトのサーバー代でしょ。メールソフト代でしょ。これだけで、もう自動的に月四万ぐらい出ていくことが確定してるんだよ。当面の目標として、これをとんとんにしたい」
「でも……」
「郷さんも言ってたじゃん。どう転ぶかなんて、わからないよ」
口をとがらせた麻弥を尻目に、みさとは途中だった朝食を再開している。対照的な表情を見比べて、孝子と春菜は、くすりとやり、こちらも朝食を再開した。麻弥だけが難しい顔のままである。