第一三話 フェスティバル・プレリュード(一三)
「……あの子が?」
行正の問いは車を駐車スペースに運んでいった麻弥についてだった。墓参に付き合ってくれた舞浜の友人と、ご存じの倫世を連れていく、と断っておいたのだ。
「はい」
「そう。優しそうな子だったね。向こうでも、倫世ちゃんみたいな友達ができたんだ。よかった。本当によかった」
ハンカチでなんとか体裁を整えた若々しい顔が、またぞろ泣きぬれる。そこに、麻弥と倫世がやってきた。
「うわ。先生、まだ泣いてる」
行正と旧知の倫世が驚きの声を上げた。
「いや……」
「いったんは泣きやんだんだけどね。私に、舞浜でも友達ができて、安心した、って言って、また。先生は私をなんだと思っているのかな」
「いや……」
涙で詰まって、行正は、なかなか言葉を続けられなくなっている。午前の盛時は過ぎたとはいえ、病院の正面玄関だ。人通りは皆無ではない。孝子は行正を促し、その場を離れた。
「いや。お見苦しいところをお見せしちゃって」
四人は五階の院長室に入った。豪華な調度の中央に据えられたソファに座を占める。テーブルの上では、人数分のコーヒーが、白い湯気を立たせている。
「それぐらい、俺にとっては、忘れ難い患者だったんだ。この子の、お母さんは」
説明は、唯一、当時の事情を知らない麻弥に向けてのものだった。
「その人の忘れ形見が会いに来てくれて、もう、うれしくて、うれしくて。でも、考えてみると、俺が響子ちゃんの主治医だったのは、一週間足らずなんだよね」
「それは……?」
「あの人、病院にかからなかった。本当に、最後の最後だけは緩和ケアでかかってくれたけど。それも、頼み込んで、ようやく、だった」
「覚えています。俺が出す。うちにかかれ。俺のお金は私のところには行かないんだから。俺の手向けを受けろ、って。麻弥ちゃん。先生、かっこよかったよ」
「え。待って。それ、なんの話?」
麻弥よりも先に倫世が食い付いてきた。
「たむりんは知ってると思うけど、麻弥ちゃん。うちの母親、どうせ治らない、って病院にかからなかったの。その分の時間とお金は、私のために使う、って」
「え……?」
「で、いくら勧めても、なしのつぶてで、最初に母を見てくれた先生のお父さまが、先生に、同級生がえらいことをしてくれてる、って連絡して」
「そう。飛んでいったよ。響子ちゃんと、隆行と、俺とは、中学、高校の同級生で。いや。気の強い子とは知っていたけど、久しぶりに会ったら、当時の比じゃなかった。それは、予後が悪い病気ではあったよ。でも、まだまだごく初期の段階だったのに、あそこまで思い切れるものなんだ、って。妙な話、感動したな」
「感動し過ぎて、一文の得にもならないのに、うちのために骨を折ってくださって。緩和ケアの手配も、そうだし、私と麻弥ちゃんが会えたのも、行正先生のおかげだよ」
理解が追い付いてない様子の麻弥は、ぽかんとしている。
「響子ちゃんの心残りは、孝子ちゃんを安心して託せる身寄りのないことと、それと、お金、だったね。成人までは、なんとしても苦労をさせずに、って。でも、どうしても、足りない。で、俺が、隆行に頼んだんだ。前々から、あいつのところは理想的な家庭だと思っていたんで、事情を説明して、ね」
このあたりの行正はよどみない。おそらく彼は、孝子と響子、隆行の血縁関係を承知している。その上での、当たり障りない説明だろう。
「一人じゃなかったら、俺が引き受けたかったけど。あのころは、まだ、若手で、家も空けてばかりだったし。それに、年ごろの女の子を三〇男が、っていうのもね……」
こちらは、初耳だ。行正は、もしかして母を、と思った瞬間に、孝子は体を巡る血液の温度が、急激に冷える感覚を得ていた。あの母は、彼の純粋な好意に値するような女ではなかった。この思いが冷熱源となっている。もちろん、孝子は響子とは違う。秘密は墓場の中まで持っていく。
「でも、早まらなくてよかったよ。まさか、美幸さんが、孝子ちゃんを養女にするぐらい、気に入ってくれるとは予想してなかった」
「……養母は立派な方ですもの」
それに引き換え、とは思っても、おくびにも出さない孝子だった。能面は、他の三人には、愁い、とみえていただろう。
「美幸さんといえば、響子ちゃんとの言い合いもすごかったね。話は前後するけど、隆行が孝子ちゃんを引き受ける、って決まって、次は響子ちゃんの番、って段になったんだ。美幸さんが緩和ケアの費用を持つ、って言ったら、無用、その金も娘のために、って響子ちゃんが」
おえつの声は麻弥だった。隣に座っていた倫世が慰めているが、こちらも決壊寸前である。
「どちらも一歩も引かなくて。その時でしたね。見かねた先生が、俺が出す、って言ってくださって。そういえば、あの、お代は?」
「美幸さんにも言われたね。出す、って。いや、出させろ、か。おとなしい人だとばっかり思ってたら、意外に押しの強い人で。驚いた」
「え。じゃあ、おばさまが!?」
「まさか。あれは、俺が響子ちゃんに贈った手向けだ。誰であっても、譲らない」
やはり、と思った瞬間に孝子は深々と黙礼していた。どんな表情を作るべきか、とっさには判断できなかったのだ。傍らではうぶな小娘たちが染み入るような泣き声を上げていた。温かな魂たちとの同居は、今の孝子にはいたたまれないことだった。




