第一三四話 加速度(一)
アメリカに渡航してから数日の、神宮寺静の動静というものは、ほとんど日本に伝わってきていない。専門誌の『バスケットボール・ダイアリー』誌が申し出ていた同行取材をはじめ、あらゆる取材が拒否されていた。LASU女子バスケットボール部への申請も同様だった。全て、各務智恵子が手を回してのことである。セレクションに集中させる、という孫弟子への親心なのだ。
なお、この取材拒否による混乱は、ほとんどなかった。ひとえに競技に対する認知度故、だ。日本でメジャースポーツといえば、男子野球と男子サッカーの二つとなろう。それ以外のマイナー勢は、なんらかの快挙、壮挙なくして、世の耳目を引くことはない。つまり、マイナー勢の一員である女子バスケットボールの選手が取材を受けなかったといって、なのだ。
静がSNSに手を付けていなかったことも大きかった。自ら発信せず、また、めくるめくレザネフォルでの生活にかまけて、各務にすら連絡を怠っているぐらいなので、周辺から漏れ伝わることもない。一気に親密な関係となったミューアファミリーでは、アーティとエディが若者らしく、SNSのヘビーユーザーだったが、二人とも静に関する発信は控えている。これは伏見の、セレクションにパスするまでは、という要請による。
静の今を知るのは、ほぼ家族のみ、という二月初旬のことだ。その家族の一員である神宮寺孝子は、週末の午前一一時、舞浜大学千鶴キャンパスの駐車場にいた。周囲には正村麻弥、斎藤みさと、北崎春菜がたむろしている。曇り空のうそ寒い中で、全員が首をすくめて、吐く息は白い。既に春季休暇に入っている構内に、四人が姿を現したのは、みさとが仮予約を入れたオフィススペースの内覧をするためであった。
チームの大立者であるアーティ・ミューアの偏愛とシェリル・クラウスの推薦を受けて、セレクションのパスは、ほぼ間違いない、と静の感触が届いていた。これを受けて、行くぞ、との号令を発したのは、もちろんみさとだ。
「おはよう」
現れたのは、舞浜大学産学連携センターの斯波遼太郎と、隣には舞浜大学学生協同組合の風谷涼子だ。双方、ベージュのコートにブラックのパンツである。またもや色がかち合ってしまったようだ。
「ペアルーック!」
ものも言わずに涼子が突進してきて、孝子に組み付いた。
「小娘」
「本当のことを言っただけなのに」
「小娘。いつまでティーンエージャーなの。毎度、駆り出される私の身にもなって」
「二月八日です」
笑い転げていた麻弥が答えた。
「すぐじゃない。お祝いしなきゃ」
孝子を開放した涼子が、ちらりと斯波を見やった。
「よかったじゃない、斯波さん」
「え?」
「神宮寺さん、もうすぐティーンエージャーじゃなくなるんですって」
「一緒にプレゼント選ぶ?」
「……いや、何をとぼけてるんですか。ティーンエージャーじゃなくなるのよ」
「……え?」
「……ティーンエージャーは守備範囲外、って言ってたでしょうが。これで立派に守備範囲内になったでしょう?」
斯波が孝子に顔を向けた。
「そんなこと、言ったかな?」
「言われました。涼ちゃんさんの前で他の女を褒めていいのか、って聞いたときに」
思案顔の末、ついに思い出さなかったらしい。
「まずいな」
「何が」
「孝ちゃんに興味ないことがばれた」
場は、まさに爆笑となった。収まりそうになっては、誰かがまた発作的に笑いだす、ということが何度が続き、結局、五分ほどが経過してしまっている。
「行こうか。これ以上、ぼろを出さないうちに話題を変えよう」
「斯波さん。忘れませんよ」
「忘れて。僕はもう忘れた」
斯波が先頭に立って一行を導いたのは、駐車場の脇にある三階建て、明るいグレーの建物だった。日ごろ駐車場を利用している孝子、麻弥、春菜は、その建物を見知っていた。しかし、なんのための建物なのかは、理解していなかった。
「『舞浜大学インキュベーションオフィス』ですか」
壁に掛かった黒塗りの銘板に書かれた文字を、孝子が読み上げた。
「そう。一階のSO101が、仮予約を入れてある部屋になるよ」
駐車場に面した西口から内部に入る。東側にも入り口があり、そちらにはオフィス用の駐車場がある、という斯波の説明だった。有料なので、大学の駐車場を使える孝子たちには無縁だろう、とのことだ。
「初めて入ったわ」
「普通の学生生活には、ほとんど関係のない場所だしね。入居してるのも、うちの理工学部と組んで研究をしてる企業とかだよ。孝ちゃんたちみたいに、完全に学生だけのベンチャーが入ってくるのは珍しいね」
入ってすぐのエレベーターホールから、吹き抜けの中庭で隔てられた廊下のうち、斯波は向かって右側、方角では南側を示した。
「この並びはスモールオフィス用の部屋なんだけど、使い勝手が悪くて、現状、どこも入居者はいないんだ。101が気に入らなかったら、変更は大丈夫だよ」
南廊下の、最も手前がSO101だった。明るいオレンジの扉がまぶしい。
「ここじゃなかったら、107がトイレに近くて便利かも」
室内は、六人が入るとぎゅうぎゅうといったありさまだ。
「六帖ぐらいですか?」
部屋を見回した春菜が問うた。
「それぐらい。狭くて申し訳ないんだけど、値段が跳ね上がるんで」
スモールオフィス用で賃料が約三万。これが、一般用となると五倍以上になるという。一般用では、給排水設備があったり、電気容量が大きかったり、といったプラスアルファがある。
「後は、床が、こういうのじゃなくて、薬品とかの耐性品になってるとか。まあ、これは、孝ちゃんたちには関係ないか」
タイルカーペットをつま先でつつきながら斯波は言うのだった。




