第一三三話 TRANCE-AM(一〇)
午後になって、ミューア邸にシェリル・クラウスが現れた。ミューアファミリーとは顔なじみらしく、シニア、ジェニー、エディらと談笑するさまは、いかにもくつろいで見える。
「これが、ここに来る楽しみなのよ」
ジェニーに供された、例の茶色いスムージーを飲んで、笑顔だ。
「シェリル。昨日は、ありがとう」
リビングのソファに座るシェリルのそばに静は寄った。
「当然よ」
シェリルが右手を上げ、自らの隣に座るよう示す。座ると、肩を抱かれて、大きな目が、静をじっと見据えた。
「私とリサが、やれる、と思ったから、ここにあなたはいるのよ。そのあなたを正当に扱わないこと、それは私とリサの判断を疑うことだわ」
「シェリル。LASUで何かあったのかい?」
スムージーのグラスを手に、こちらもソファに座っていたシニアが問い掛けてくる。
「ええ、シニア。あの子たちは、シズカをゲストとして正当に扱わなかったの」
「ほう」
「嘆かわしいことだわ。一目見て相手の力量を把握できないのは、二流、三流の証明よ。LASUはしばらく、いい結果を残せないでしょうね」
この人は少し自分を買いかぶっているのではないか、と静は気が気でない。
歓談が終わると、静たちはジムに移動する。
ワークアウトは、入念なウオーミングアップで始まった。一つ一つの動作にシェリルの指示が飛ぶ。
「チームに入って、すぐのころ、お前のウオーミングアップはなってない、って怒られたわ」
「……ああ。すごく怒られた、っていうのは、それ?」
「たかだか一、二時間のことよ。それを怠って、けがをしたら、後悔は一生続くでしょう?」
ウオーミングアップのランニング、コンディショニングが終わったところで、二時間近くが経過していた。
この後、マシンを使ったウエートトレーニング、最後にシューティングときて、合計四時間にわたったワークアウトが終わった。
「さすがにばてたみたいね」
腰に手をやって、うつむいている静の背をアーティが、ばしんとたたいた。……吐きそうなので、やめてほしいのだが。静はそう思っている。
「よくやったわ。確か、アートは最初のとき、途中で吐いて、離脱したわね?」
「やめてよ、シェリル」
「さあ。もう一息よ。しっかりとクールダウンしましょう」
クールダウンの最中、シェリルが見学していた伏見に声を掛けた。
「あなたたちは、今、どこにいるのかしら?」
「ここよ。セレクションにパスしたら、その後も、とアーティは言ってるわ」
「素晴らしいわ。ジェニーのサポートを受けられるのね」
シェリルはかつてジェニーの栄養講座を受講していたという。ベテランの域に差し掛かり、今後の競技生活を見据えたとき、シニアのアスリート人生を完走せしめたジェニーの手腕に注目したのだ。アーティとは、それ以来の付き合いだ、とシェリルは語った。
「いろいろ、教えてもらったわ」
「シェリルがアーティのコーチだったのね」
「……無理にリーグに入ったのは、シェリルと一緒にやりたかったからよ。ドラフトだと、どこに飛ばされるかわからないし。そもそも四年後には、シェリルが引退してるかもしれないし」
シェリルが目を丸くしてるのに気付いて、アーティは慌てた様子で付け足す。
「そんな顔をしないでよ」
「いや、そうじゃなくて」
不平、不服ではない、というシェリルの表明だった。
「アート。私と一緒にやりたかった、なんて初めて聞いたわ。高校を出て、すぐにリーグに、って聞いたときは、またわがままを、って思ってたのに」
「ええ……」
「まさか、あのアートが、こんないじらしいことを言うなんて」
「……言うんじゃなかった」
顔を赤くして、そっぽを向いたアーティの頭を、シェリルが大きな手がなで回した。
「フン……。何、泣いてるのよ?」
言われて、静は自分が涙を流していることに気付いたのだった。好き勝手にやっている、とばかり思っていたアーティの純真に感激したの、だろう。静にも、涙の理由は把握し切れていない。疲労が激しいせいかもしれなかった。
「……吐きたいのを我慢してたら、出た」
一瞬の間の後、アーティ、シェリル、伏見が大噴出である。つたないジョークが決め手になった、というわけでもないだろうが、辞去に際してシェリルは、チームに推薦する、と明言していった。これで間違いなし、とミューアファミリーと伏見から祝福される中、静が見ていたのは、去りゆくシェリルの一挙手一投足だった。ミューア邸の前にとめていた赤い車に乗り込む、そのさっそうとした足取りには、ささいな乱れもない。一方の静は、怪しい足元を自覚して、伏見に少し寄り掛かっている。
あの人は、自分の母親と、ほぼ同じ年齢なのだ。……自分があの人と同じ年齢になったとき、あんなふう、になれているだろうか。
窓を開けて、手を振ったシェリルに、静は振り返した。神宮寺静は、一八歳。シェリル・クラウスは、三八歳。二〇年――。それは、気の遠くなるほどのはるかさを含んだ言葉だった。




