第一二九話 TRANCE-AM(六)
朝食の準備をする、とジェニーが去った後も静はジムに居残っていた。コートをぐるぐると回った後は、ジムの隅にあるエクササイズルームに入り込む。が、鎮座する機器は、レバーやら、ワイヤーやら、ウエートやら、複雑に絡み合った静の初めて見るもので、使い方がさっぱりだ。仕方なくボールスタンドに向かい、ボールを手にすると、ドリブルをしながらうろちょろとする。シューズは部屋に置いてきているので、それも落ち着かず、結局、フリースローにいそしむ。
「シェリルとのワークアウトはハードよ。あんまり張り切ってると持たないわよ」
左右でぽんぽんとボールをゴールに入れていると、背後からの声だった。振り返ると、アーティが立っている。
「アーティ。すごいね。こんな、毎日、思いっ切りバスケットボールに打ち込めるなんて」
「ワークアウトとゲームは鏡映しよ。ワークアウトでできないことは、ゲームでもできないの」
「うん。そうだね。ここでいっぱい練習したから、アーティは勝者になれたのね」
この言葉はアーティの自任についての追従なので、お世辞ではない。しかし、勝者の心は大いにくすぐられたようだ。まんざらでもない、といった表情で、静の手のボールを取ったアーティは、ゴール下に向かい、そこから放ってくる。LASUでのときと同じく、シューティングを手伝ってくれるようだ。
右手、左手、左手、右手と、次々にシュートを放ち、そのことごとくを静は決めていく。
「本当に器用ね……」
あきれたようにつぶやいたアーティの手が、ふと止まった。
「……シズカは、どこに泊まってるの? LASUの寮?」
「いや。『LASUフロント』だっけ……? そんな感じの名前のホテル」
ああ、と、顎に手をやって、眉間にしわだ。
「いいところじゃない。……エディ、あんなちっぽけなものを慌てて買ってきて。全く」
難しい表情を崩さず、アーティはぶつぶつとやっている。
「そうだ。あれはエディに押し付けて、エディのを取り上げればいいか」
「アーティ……?」
「シズカ。こっちにいる間、うちにいたら? 一日中、バスケットボールができるわよ」
「え!?」
「ワークアウトのパートナーも、世界で一番の私がいるし」
強気な笑みを浮かべ、しかし、すぐに緩めて、こう続けている。
「訂正。シェリルにはかなわないわ。世界で二番目の私ね。あのベッドは、あんまりにもひどいし、部屋のことは考えましょう。どう?」
「すごく、うれしいけど。でも、いいの……?」
「ええ。そもそも、ハイスクール上がり同士、よっぽどの下手くそじゃなければ応援しようと思ってたし。そして、シズカは下手くそじゃなかった。チームに推薦する。うちにはシェリル以外、四年間を無駄に過ごしたクソしかいないわ。感謝されるはずよ」
言葉の端々から伝わってくる、アーティの高卒、そして、大卒へのこだわりは、相当に根深い。
「アーティが推薦してくれるなら、心強いよ」
巧みに、かわせただろうか。今の時点で静には、大学を経由してリーグに加入した選手たちへの特別な感情はないのだ。今度、どうなるかは知れたものではないが。
「決まりね。エディも喜ぶわ」
こちらは、うまくかわせなかった。初対面の日本のガールに、泊まっていけ、とくどかったエディを、静は少し苦手になりかかっている。なんとも言えない表情で、アーティは静を見ている。顔に出してしまったのだ。
「……あの、アーティ」
「シズカ」
右手の人さし指を唇に当てて、しーっ、とアーティがやる。静も倣って、右手を口元に運ぶ。
「エディが好きなのは小さくて丸いのよ。シズカは大丈夫」
「小さくて丸いの」の意味を、しばらく取れずに、静は困惑を隠さずアーティを見た。アーティは頬を膨らませて静を見ている。自分の鈍さが気に入らないのか。……ようやく、アーティが頬を膨らませている意味を理解した。怒っているのではない。太めを表しているのだ。「小さくて丸いの」とは、伏見由香のことだ。
「もう、アーティ……」
「しーっ、って言ったでしょう」
「本当に、絶対、しーっ、だよ」
言いながら、顔を見合わせた二人は、どちらからともなく、くすくすとやっている。
「日本に行ったときの写真を見ても、ユカみたいなのばかりと一緒に撮ってるのよ」
「留学生のガールフレンドも、そうだった、ってシニアが言ってたね」
「そうね。まあ、エディの趣味はどうでもいいわ。じゃあ、戻りましょう」
母屋に帰ると、リビングではジェニーが、また半眼でぐらぐらとやっている。傍らではシニアと伏見がカップを手に談笑している。エディは、まだ起き出していないようだ。
朝のあいさつが済むと、アーティが早速、切り出した。
「ダッド。お願いがあるの」
「なんだい」
「シズカに、このままうちにいてもらおうと思うんだけど。いい?」
「もちろん。構わないよ。しかし、そうなると、あのベッドは、どうにかしたほうがいいんじゃないか」
「うん」
「あ、いえ、こっちにいるのは一〇日ぐらいなので、大丈夫です」
「何を言ってるの。私が推薦するのよ。パスするに決まってるじゃない」
「ありがとう、アーティ。あなたのサポートは、シズカにとって、この上なく素晴らしいわ」
静が反応する前に、伏見がしゃしゃり出てきた。ついては、ボディーガード兼通訳の自分も置いていただけるとありがたい。自分の契約は今回の渡米限りなので、ベッドはあのままで結構である。伏見は勝手に話を進めていく。
「ちょっと、伏見さん……!」
思わず、日本語で静は叫んでいた。
「静さん。チャンスよ。このチャンスを逃しては、絶対に駄目」
「何を話したの、ユカ」
「シズカはあなたの申し出に、とても驚いているわ。思わず日本語で話しちゃうぐらいにね。だから、アーティに任せておけば大丈夫、って言ったの」
「そのとおりよ」
双方、にやりとやった後に、こくこくとうなずいている。そして静は、ただただあぜん、ぼうぜんとするばかりである。




