第一二話 フェスティバル・プレリュード(一二)
倫世の予想は外れだ。孝子は岡宮家を出て、これまで、ずっと法光寺にいた。
麻弥が鋭敏に察した孝子の影は、無論、亡母への屈託であった。なぜ、だった。なぜ、あんなものを残して逝ったのか、だった。くだんの書き付けのおかげで、自分の養家に対する面目は丸つぶれとなった。二年ぶりの墓参で、いや、対峙で、盛大になじってやろう、と福岡に乗り込んできたのだ。
最初こそ、墓前でしゃがみ込んで、一心に亡母と組み合っていた孝子だったが、だんだん飽きてきた。だらけて、その場に座り込み、しまいには供物台をどけ、芝台の上に腰を下ろす始末である。孝子とて憤激の片隅では自分の行動の無益さは理解していた。いくらただしたところで亡母には届かない。反省や反論が、孝子に聞こえてくることも、決してないのだ。
孝子は膝を抱え、うつむいた。思わず笑いが出た。今、自分は、うってつけの場所にいる、と気付いたのだ。母よ。あなたの恨みつらみを、どうして墓場まで持っていってくれなかった。そんな気性だから、男に逃げられたのだぞ……。
「こら! 浸り過ぎ! 罰当たりが!」
大声に、はっとすると、麻弥と倫世が見下ろしていた。
「孝子」
麻弥が手に持っていたダウンジャケットで孝子をくるんだ。
「……結局、来たの?」
一歩を引いた様子の麻弥を倫世が押しのけた。
「結局、来たの、じゃないよ。さっさと帰ってこい。お腹、ぺこぺこだよ。お前も、腹、減っただろ」
「何時?」
「もうじき一時」
「え。もう、そんなに」
孝子は立ち上がった。
「遅刻だ」
「お前、他に回る、って言ってたけど。もしかして、ずっと、ここにいたの?」
「いたね」
「ばかか」
「そう言わないでよ。抱っこされたかったんだよ」
うそっぱちだが、麻弥と倫世には効果てきめんだった。両者の顔面の彩度が下がる。
「……そういう、怒りにくくなるような、やめろ」
「どこに行くつもりだったんだ……?」
「川島さんのお宅と行正病院」
「川島さんは、おじさんの実家。行正病院は響子ママが入院してた病院な」
言葉足らずを倫世が補った。
「どうする?」
「行ってくる」
「付いていくよ。待ちくたびれたし、遅刻の説明、やってあげる」
「それは、お優しい。でも、自分でやるよ。私のしくじりだし」
川島家と行正病院に遅刻の謝罪と再度の来訪を告げた後、孝子は二人と共にいったん田村家に向かった。ワゴンにまとまっての移動と決まったので、余りとなる軽トラックを置くためだ。孝子としては、軽トラックを運転してみたかったのだが、あいにく二人乗りで、今は断念である。
岡宮家から程近い川島家への訪問はすぐに終わった。孝子は川島夫妻が実の祖父母と知っていたが、先方は、どうか。養親に確認する気にもならぬ。今更、名乗りを上げるまでもないだろう。血は水よりも濃し、とは、血が血として扱われてきた経緯があって、初めて成立する言葉なのだ。祖父母との交歓は諦めている。表面上の、養女と義祖父母の関係を貫き、儀礼的に淡々と面談を終了させた孝子は、次の訪問先へと車を急がせたのだった。
町の一等地、春谷町駅の眼前に所在する行正病院は、二年前に完了した建て替え工事から間もなく、建物は生新の気配を残している。その正面玄関前には、響子の主治医だった行正陽人医師が、腕組みをして、そわそわと体を揺すっている姿があった。
「行正先生、全然、変わってないんだけど」
信号待ちの車内で、孝子はつぶやいた。孝子と行正は九年ぶりの再会であった。九州医科大学病院に奉職していた彼は、多忙につき、これまで響子の法要に、ほとんど顔を出していなかった。一周忌の後、三回忌と七回忌を飛ばして、今年で九年だ。同じく勤務医である養父の激務ぶりを見ていれば、それも仕方がないとわかる。
そんな行正医師が病院を承継するため、行正病院に入職したのは、おととしだった。それを聞き付けた孝子は、いずれ面会に、と考えていたのだ。私立病院の院長は、大病院の勤務医より暇だろう、と。岡宮母子の行く末を定めてくれた医師と旧交を温めることは孝子の念願であった。
「麻弥ちゃん、どう? 行正先生、うちの母親と同い年。四〇歳。見えないでしょう」
「え、あの白衣の人? 本当に?」
遠目でもわかる姿のよいスーツ姿に麻弥はうめいている。
「おじさまもそうだし。この辺りは、美男の土地柄なのかもね」
「私とおかみもいるし、美女の土地柄でもある」
「私はともかく、お前は不細工でしょう」
信号が変わった。孝子の運転するワゴンが行正病院の駐車場に入る。気が付いたらしい。行正が突っ込んできた。
「先生! 危ない!」
急ブレーキの孝子は、車窓を開けて怒鳴った。
「ごめん。いや、それにしても、声、響子ちゃんにそっくりだったよ。顔も、生き写しだ……」
絶句した顔では涙が滂沱とあふれている。長い時間がたっても変わらず熱血の人なのだ。孝子も思わずもらい泣きしていた。来てよかった、と衷心に思えた。
「孝子。車、私が入れておくよ」
助手席の麻弥の申し出は適宜であった。はなまで出てきて安全運転は望むべくもなくなっていた。




