第一二六話 TRANCE-AM(三)
「サンキュー。ぜひ、ご一緒させて」
伏見がしゃしゃり出てきた。アーティと握手しながら、静のボディーガード兼通訳である、と名乗っている。
「イエス。ユカ、行くわよ」
「ちょっと待って、アート」
静と伏見を両手に抱えて体育館を出ていこうとするアーティに、リサが追いすがった。
「私は日本のチエに、シズカを頼む、って言われているのよ」
「あなたのクソガキたちと一緒だと、シズカが下手になるわ」
先ほどから続く「口撃」にいら立っていたLASUの選手たちの、何人かがアーティに詰め寄りかける。その前に、ぬっと立ちはだかったのはシェリルだった。無言で、ただ立っているだけなのだが、LASUの選手たちは一歩、二歩と後ずさっていく。
「……アート。ワークアウトは、あなたのところでやるのね?」
「え、ええ」
さすがのアーティも、シェリルの迫力に気おされているようだった。こくこくとうなずいている。
「私も行くわ。明日の、午後ね?」
「ええ」
ここで、シェリルは初めて三人の方向に振り返った。黒のトップスとボトムスの視覚的な効果もあろうが、細く、しなやかで、長い手足だった。ゆったりと歩いてくる。
一九六センチの長身がかがめられ、優しい造作の中の大きな目が、じっと静を見つめた。
「シズカ。私は、あなたができる、と思った。だから、あなたはここにいる。セレクションまで、いいワークアウトをしましょう」
「ええ、シェリル。明日を楽しみにしてる」
「行って」
静、伏見の順で握手を交わすと、シェリルはLASUの選手たちのほうに向き直った。小さく、嘆息が聞こえた。
「怒ってる。さっさと行くわよ」
アーティにせっつかれ、静と伏見は小走りでアリーナを出る。
「ルーキーのころ、めちゃくちゃに怒られたことがあるの。その時も、あんな感じだったわ」
「シェリルは、怖い人?」
「いいえ。めったに怒らないわよ」
三人は体育館の外に出た。車だ、と言ったアーティに導かれて、一行は来た道を戻る。そういえば、途中に広大な駐車場が見えたことを、静は思い出していた。
アーティの車というのは、赤いクーペだった。ツードアだが、申し訳程度の後部座席は存在するようだ。車高の低さも相まって乗降性は劣悪そうである。
「後ろに乗るよ。私が一番小さいし」
小さいといっても上背だけの話で、横幅は静に倍する伏見が後部座席に乗り込もうとした。
「なんてこと! シズカ、やっぱり前に座らせて!」
「……うん」
理由は明白だった。助手席のシートを限界まで前に移動させても、伏見の体がシートと車体との隙間を通過しなかったのだ。伏見に代わって、静は後部座席に体を滑り込ませた。天井は低く、窓も小さく、はっきりと乗り心地は悪い。
「行くわよ」
意外に、とは失礼だろうか。丁寧な運転で、アーティはLASUの敷地を抜けると、北側に迫る丘へ向けてハンドルを切った。
「シズカは、日本のどこから来たの?」
「舞浜って知ってる?」
「知らない。トーキョーの近く?」
「すぐそばだよ」
車が丘に差し掛かった。中腹ほどで、突然、周囲がかっと明るくなる。アーティは車をとめ、窓を開けると、ハーイ、ロッキー、と叫んだ。見ると、車の前には巨大なゲートがあった。脇の白い建物から、警備員らしい制服の男性が出てきた。彼がロッキーだろう。検問所だったらしい。
「やあ、アート。お帰り」
「ただいま。明日、シェリルが来るの。午後よ。よろしくね」
「ああ。隣と、後ろは、誰だい?」
「友達よ。日本人」
「それは、ジュニアが喜ぶんじゃないか」
「ええ」
「じゃあ、おやすみ」
ロッキーが建物に戻ると、巨大なゲートがゆっくりと横に動いた。
「じゃあね、ロッキー。おやすみ」
再び顔を見せたロッキーに手を振って、アーティは車を発進させる。
「ゲーテッドといって、出入りを制限しているの。もっぱら防犯のためね」
伏見が振り返って、静に説明する。
「ふーん。……ジュニア、って誰?」
「ジュニアは、私の兄。エディ・ジュニア。……気付いてた? この車、日本車よ」
とんと車には興味のない静だ。左ハンドルだったこともあって、アメリカ車だとばかり思っていた。
「これは、THIね」
THIは、Takasu Heavy Industriesの略だ。高鷲重工のアメリカでの一般的な呼称である。
「そう。それ。エディは、日本が好きなの。おかげで、うちはメード・イン・ジャパンだらけよ。エディが買いまくるのよ」
ハッハッハ、とアーティは笑っている。
「お兄さんが日本好きだから、日本人の私によくしてくれたの?」
「それも、あるけど。……私、大学に行ってないの。LBAは大学出ばかりで、入りたてのころは、連中に、かなりばかにされたのよ。成績が悪くて、大学に行けないんで、LBAに入ったんだろう、とか」
「…………」
LBA入りすれば、自分も、その手の中傷に襲われるのだろう、と考えると静の表情の明度も下がろうというものだったが、吹き飛ばすようなアーティの明るい声だった。
「もちろん、全部、黙らせてきたけどね。いい、シズカ? コートでは、下手くそに発言する権利はないのよ。心配いらないわ。あなたは私と同じ勝者になれる」
「うん」
やがて、三人を乗せた車は、レザネフォル市スカイフロントはロナルドレーンのミューア邸に到着した。分厚い垣根に囲まれた周囲の大豪邸らと比べると、ミューア邸は門扉から家屋までの距離が近く――あくまでも周りを基準に考えれば、だが――質素な印象だった。




