第一二三話 カラーズ(一〇)
一月三一日の神宮寺家の夕食は、普段と変わらぬ様相だった。明日、二月一日に静は渡米する。歓送会を、一瞬だけ考えたけど、と美幸は言った。
「よく考えたら、試験前に騒いでも仕方がないわね」
合格の暁には、盛大に祝おう、というのだ。一汁一菜の簡素な食卓を、一家の四人が囲んでいたところ、突然、那美が笑いだした。
「どうしたの、那美」
美幸の問いに、口を押さえながら那美が指したのは、キッチンの奥にあるパントリーだった。引き戸が開かれて、白い顔がのぞいている。孝子である。立ち上がった隆行がパントリーに近づくと、引き戸がぴしゃりと閉められた。
「こら、孝子」
引き戸を引こうとする隆行と、扉の向こうで踏ん張っているらしい孝子の攻防となって、見物の三人は大笑いである。
じゃれ合いを終えて、引っ立てられた孝子がダイニングテーブルに着いた。
「孝子さん。来る、って言ってくれれば、お夕食、用意したのに」
「ごめんなさい、おばさま。すぐに帰るので、お手間にならないようにと思って」
「あら」
孝子が持参の紙袋から取り出したのは、ボックスティッシュ大の黒箱だった。
「ケイちゃん、それは、何?」
「イヤホン。静ちゃん。アメリカで音楽とか聞くことがあったら使って。プレゼント。置いとくね」
孝子はリビングに行き、ソファの上に、ぽんと黒箱を置いた。
「あ。ありがとう」
「じゃあ、私は、これで」
「え。もう帰るの?」
「だって、麻弥ちゃんたち、私の帰りを待つ、って言ってたもん。すたこら帰るので、お見送りは遠慮します。おやすみなさい。静ちゃん。明日はみんなで空港に行くね」
言い残して孝子はパントリーに入っていった。勝手口を通って外に出るのだ。立ち上がった静は、その背を追う。
「見送りはいい、って言ったじゃない」
気付いた孝子が振り返った。
「いや。あの、お姉ちゃん」
「外は寒いよ。戻って、戻って」
静は思い切って孝子の隣に寄った。
「……お姉ちゃん」
孝子の耳元でささやく。
「何?」
「もしかして『指極星』は、あのライブだけ? 私、向こうでも聴きたかったんだけど……」
孝子が止まった。至近距離で、まじまじと静を見返している。
「ああ」
「え?」
「斎藤さんがいたんで、またの機会に、って思ってて、そのまま忘れてた」
「何が……?」
「『指極星』は静ちゃんのスマホにもう送ってあるよ。『逆上がりのできた日』も、ザ・ブレイシーズでとり直したやつが入ってる」
「え……?」
手招きに応じて静は孝子と共に外に出た。
「この間、電話番号の交換して、って静ちゃん、言ってきたでしょう。あのとき」
「あ。それで、妙に時間がかかってたの?」
「いくら私でも、電話番号の交換ぐらい、すぐにできるよ。データの転送をやったのは初めてで、ちょっと手間取っただけなのに。二人とも、侮ってくれたね」
「だって、わからなかったんだもん……。ごめんなさい」
「いいよ。それにしても、実は、ちょっと焦ってたよ。おばさまったら、いつになったら静ちゃんにスマホを買ってあげるんだろう、って。スマホに送るつもりで、剣崎さんにデータをもらってたのに、一カ月ぐらい待ちぼうけになってたんだよ」
「本当に。ぎりぎりだった」
「というわけ。私は帰るよ。おやすみ」
孝子は車のドアを開けた。
「あ。お姉ちゃん」
「うん」
「私がエンジェルスに入れたら、またライブしてくれる?」
「そんなことじゃなくて、もっと、高いものとか、おねだりしていいのに」
ライブがいい、と静は主張した。幼少期よりバスケットボールに打ち込んでいたこともあって、あの手の催しへの参加は初めてだった。感動した。義姉の歌声に、義姉を支える音楽家と演奏家の技量に、だ。ぜひ、また聞かせてほしい、と熱弁をふるう。
「ふうん。欲がないね。どんと高くてもよかったのに」
「いや。ライブがいい」
「わかった。今度は、もう少し曲を増やせるよう、考えておくよ。考え付かないときは、また二曲ね」
「ええ……」
勝手口が開いた。長い中座に、那美が出てきたのだ。
「二人で何をこそこそやってる!」
「静ちゃんにザ・ブレイシーズのライブを、また頼まれてね。エンジェルスに合格したら、いいよ、って」
「私も!」
「うむ。じゃあ、ザ・ブレイシーズファンクラブ、会員番号二番に命ずる」
「なんなりと!」
「うその下手なあなたのお姉ちゃんに代わって、私たちの長話の理由を考えてあげてね。任せた」
「大丈夫。私、演技派」
……那美の考えた理由は、イヤホンの値段だった。高級そうな外箱に恐れをなした静は、孝子に追いすがり、値段を、値段を、とやって怒られていた。これだ。
「それは、そうよ。確かに、高そうだけど……。プレゼントの値段を聞くなんて無粋は、怒られても当然でしょ」
那美の見てきたようなうそに、美幸は全く疑念を抱かなかったようだ。二人の姉の性格を把握し切った名演は、確かに、演技派の名に恥じないものだった、といえるだろう。




