第一一六話 カラーズ(三)
大学の冬季休暇明け、小中高でいうところの三学期の期間は、極めて短いのが一般だ。およそ三週間といった間に、通常の講義の最終回と後期の考査が組み込まれるので、学生たちは大忙しとなる。当然、孝子たちも勉強に追われているのだが……。
「岡宮鏡子の話は、してくれたの?」
最近、斎藤みさとは海の見える丘に入り浸りだ。自宅よりはるかに距離の近い場所からの通学に、味を占めたのだ。
「まだ。今は試験週間だよ」
持参のスエットに身を包んで、みさとはキッチンに立っていた。孝子、麻弥、春菜はダイニングテーブルで、それぞれに教科書とノートを広げている。
「聞くぐらい、すぐできるでしょ」
トントントン、とリズミカルな包丁の音を立てながら、また、みさとだった。この騒がしい押し掛け女は、意外なほどによく家事をこなす。
「お前、絶対に料理とか下手だと思ってた」
「奇遇ね。私もお前は、絶対に料理は下手だと思ってた」
互いの手練を目撃した麻弥とみさとの、ののしり合いである。
「斎藤さんは、勉強しなくていいの?」
「やることはやってる、ご心配なく。ちょっと、味見してくれる?」
孝子は立ち上がると、キッチンに行き、みさとの隣に立った。
「うん。おいしい」
孝子好みの薄味も、既にマスターしているみさとだ。
「じゃあ、これで煮付けますか」
鍋に人数分の魚の切り身を入れ、お玉で煮汁を回し掛けながら、みさとが口ずさみだしたのは『逆上がりのできた日』だった。
「本人を前に、おこがましいかしら」
「別に」
「これは、早くしろ、とか、そういうんじゃないよ。単純に、気に入っただけ」
「どうだか」
シシシ、と笑って、みさとは答えない。余計なこと――孝子と神宮寺家の関係――を、麻弥はみさとに告げていない、という。故に、みさとは孝子の行動を、妹のために姉ちゃんが家族を代表して頑張ってる、というふうにしか思っていない。孝子が、神宮寺家には秘密裏の内に、静のマネジメント体制を整えようとしていることも、無論、みさとは知らぬ。降って湧いたような岡宮鏡子産のあぶく銭だったが、剣崎の話では、当座の運転資金には十分な額になるらしい。事情に通じていないみさとが、親と弁護士への確認ぐらい、さっさとしてくれ、とうるさい理由だ。
一方、孝子は、たまらないな、といらいらしだしている。切り捨てたいのはやまやまだが、みさとの行動力に少なからず魅力を感じているのも、また事実だ。黙らせるには、事情を明らかにする、しかないだろう。どうせ、ここまでの深入りを許しているのだ。話してしまっても、大過にはなるまい。
「斎藤さん」
「ほい」
「私ね、静ちゃんとは義理の姉妹なの」
煮汁を魚に掛け回す手が停止した。対面キッチンの向こうでも、二人の手が止まったようだ。孝子はみさとの手からお玉を取ると、掛け回しを続ける。
「小さなころにみなしごになりまして。両親の友人の神宮寺さんに引き取ってもらって。養女にまでしてもらって」
隣のみさとは停止したままだ。
「本当に、神宮寺さんにはよくしていただいて。もしかしたら、実の娘の二人よりも、いろいろと手間暇をかけていただいたかも。……静ちゃんに、LBAの挑戦を手伝って、って言われたとき、チャンスだと思ったの。今まで、お世話になったご恩を返せるチャンス、って」
おえつに、ぎょっと孝子が横を見ると、みさとの目には涙が光っていて、そして、一滴がこぼれた。春菜や彰が、孝子と静の関係を知って感激をあらわにしたことはあった。しかし、感涙は、みさとが初めてである。今度は孝子が停止した。
「……わかった。もう、言わない。言ったら、ばれちゃうもんね。ばれたら、恩返しにならないもんね。わかった」
スエットの袖を目に押し当てて、みさとはしゃくり上げている。収まる気配はなく、隣で孝子はおろおろと挙動不審に陥っていた。ダイニングテーブルでは、麻弥が笑いをこらえているのだが、これなども目を真っ赤にしていて、はたから見れば何をこらえているのやら、だった。年長者たちのそれぞれを、見ないふりで春菜は教科書に集中している。危うい自覚があるに決まっている。
やがて、ほほ笑みへと至る、柔らかな時間が流れていく。そんな大寒の夜である。




