第一一二話 指極星(二八)
「おい。はなむけを贈りたいんだったら、前半までなら構わんぞ」
これは、昨夜、舞浜大女子バスケ部のミーティングで、各務と春菜との間にあったやりとりだった。
「余計なお世話です。静さんの決断が正しいと証明するには、力の差を見せつけるしかありません」
「まあ、そうだろうな」
コート上の人数の少ないバスケットボールでは、一人のスペシャルな存在によって、彼我のバランスが大きく変わることが、ままある。例えば、若年層における留学生の存在などは、その適例だろう。鶴ヶ丘高校のここまでの試合では、静がスペシャルとして、対戦相手とのバランスを破壊してきた。しかし、この日の試合では、静を上回るスペシャルが、元々、崩れていたバランスを、さらに粉砕した。
春菜にマークに付かれ、静は全く本領を発揮できない。
盟友を助けようと、景も必死にあがくが、師匠筋の猛者たちに阻まれ、なすすべなし。
静がゲームを支配してこそ、伸び伸びと格上に挑むことのできた後輩たちが、ここにきて役に立つはずもなかった。
判官びいきと詐術的に勝ち上がってきた舞浜大への反感もあり、当初、場内では鶴ヶ丘への声援が多かったようだが、第二クオーターまでで、だいたい、そういった雰囲気は消滅していた。五一対一二九という大差で、鶴ヶ丘高校は敗れ去った。
ダブルスコアまでに収めたい、と言ったが、かなわなかった。……静にとっては、懐かしい感覚であった。近しい点差で敗れた一年時の夏が、自分の原点なのだ。送り付けた挑戦状に、春菜は応えてくれた。次は勝つ、と言い続けて、実際は負け続けているわけだが、自分への関心に変化はないようだ。
向上心を尊ぶ女、と春菜は自らを評して言っていた。向上心ならある。故に、アメリカに行く。LBAに挑戦する。諦めたりはしない。義姉が贈ってくれた『指極星』の歌詞にあった、勇気と希望をしるべに、静の戦いは続くのだ。
試合を見届けた孝子たちは、メインアリーナ裏手にある国立運動公園の付属駐車場に向かっていた。凄絶だった戦いの余韻に誰も無口だ。とぼとぼと歩いている。
「おおっと」
戦闘を歩いていたみさとが何やら口走った。
「どうしたの?」
「舞浜大のバスって、どれだ?」
孝子も状況を把握した。駐車場の半分ほどがバスで埋まっていた。入り口からも、続々と進入してくる。帰りのバスに同乗させてやる、と舞浜大学女子バスケットボール部監督の各務に誘われ、やってきたわけだが、これは、目当てを探すのに骨が折れそうだった。
「企業の動員かね。次は、どこだったっけ」
みさとは取り出したこの日のパンフレットを広げた。
「午後四時、高鷲重工アストロノーツ対鹿鳴製鋼リーベラ。おう。大企業同士じゃん。そりゃ、駐車場もぱんぱんになるわ」
三人は舞浜大のバスの捜索を開始した。前の時間帯からとめてあるのだ。駐車場の奥のほうに違いない。麻弥の読みに従って足を向ける。と、その時だ。
「おかみさん」
呼び掛けに反応したのは孝子と麻弥だ。田村倫世のみが使う孝子のニックネームである「おかみ」を知らない、それ以前に倫世を知らないみさとは、気付かず先へ先へと歩いていく。
声の主を探すと、少し離れた場所で、黒ずくめのコート姿の大男が手を振っていた。倫世の彼氏は高鷲重工に務めていると聞いたが、あの大男か。確か、川相一輝という名だ。
「麻弥ちゃん。ちょっと行ってくる」
「ああ。じゃあ、私はバス探しとくよ」
麻弥と別れた孝子は大男のそばに向かった。
「川相さん、ですか?」
「そう。初めまして」
孝子など比較にならない深い響きの重低音がきた。
それにしても、大きい。見上げるような、ではなく、本当に見上げないと顔が視界に入らない。川相の身長は二メートル近いのではないか。横幅も立派なものだ。野球をやっていて、ホームランを量産する打者と聞くが、この肉体なら、さぞかし遠くまでボールも飛ぶだろう。
不意に川相の顔が、がくんと孝子の目の高さまで降りてきた。膝を折って、合わせてくれたのだ。
「ありがとうございます。ご配慮いただいて」
「いや」
川相の顔が柔和に崩れた。倫世は、彼を、ゴリラ、ゴリラ、と連呼していたが、孝子は似てると思わなかった。全ての造作の大きな、雄々しい好男子ではないか。
「しかし、すごい偶然だ。面倒だったけど、来てよかった」
「今日は、重工さんのバスケの応援ですか?」
「そう。動員されて。バスケのボスは代々、重工の大物が務めてるんで、うちも断れない。逆に、野球のボスも代々、大物で、あっちもうちの動員は断らないがね」
「大きな会社だと社内力学への配慮も大変そうですね」
「全くだ」
「そうだ。去年の三月にお目にかかれそうだったんですが、あれ以来、たむりんって、こっちに来ました? 私には、一切、あいさつないですけど」
幼なじみの田村倫世が、舞浜に遊びに来たときの話だ。孝子に紹介したい、と連絡を川相に連絡を入れた倫世だったが、シーズンに入って多忙だ、と面会を断られた、ということがあった。
「来てない。今年、短大が卒業だろう、あいつ。卒業研究の大作にかかりきりで、年末も来なかった」
「大作?」
「スポーツ栄養学の論文、だったかな」
「じゃあ、卒業したら、こっちに来て、二人三脚ですか」
川相は首を横に振った。
「来年、俺はアメリカに行く。短い間に引っ越し、引っ越しも悪いんで、倫世には福岡から直接、アメリカに来てもらうさ」
「アメリカは、野球ですか?」
「そうだ。妹さんは、確か、レザネフォルだったな」
「予定では」
「俺も西海岸を考えてるんで、もしかしたら、向こうで会うことがあるかもしれない」
「そうなったら、妹をよろしくお願いしますね」
「ああ。……戻ってきたよ」
顎をしゃくって、川相が示したのは、麻弥とみさとだ。先ほど、孝子と二人が別れたあたりで、こちらをうかがっている。
「気が利かないな。終わるまで引っ込んでればいいのに」
「まあまあ。俺もそろそろ行かないと。点呼がある」
「そんなものまで」
「応援の謝礼品を配る際の参考に、って名目だが、考課に影響がある、ってもっぱらのうわさだ」
「それは、大変。私のせいで川相さんが窓際に追いやられたとあっちゃ、たむりんに会わせる顔がない。行ってくださいな」
「ああ。じゃあ、また」
立ち去りかけた川相が足を止めた。懐からスマートフォンを取り出す。
「どうしようか。俺がそちらに電話することはないが」
「私も川相さんに用はないです」
「そうか。なら、いいな」
「はい」
大男は大股でその場を去っていった。さっぱりとして、こだわりもない。泰然自若としている。たむりんめ、いい男を見つけたではないか。そんなことを思いながら、雄大な背中がメインアリーナの中に消えるまで、孝子は見送ったのだった。