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未知標  作者: 一族
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第一一〇話 指極星(二六)

「松の内に出社なんて、情けない。恥ずかしい」

 ある先輩部員の嘆きは、ウェヌススプリームスの広山真穂にとって、大いに感得できるものであった。入社以来、全日本選手権の決勝戦が実施される八日までに出社した経験のない広山だった。毎年、必ず決勝戦に進出し、相手も決まって宿命のライバル、高鷲重工アストロノーツ。結果は、優勝、あるいは準優勝だ。これが、ウェヌススプリームスの、いつもの、あるべき、年始の姿なのだ。四日の出社は、まさに、情けなくて、恥ずかしい。大失態と恥じ入るしかない。

 重苦しい朝をウェヌスの選手たちは迎えていた。彼女たちが暮らす選手寮は、ウェヌス株式会社が本拠を置く東京都大港区のウェヌス本社構内にある。選手寮から社屋まで、わずか五〇メートルほどしか離れていない立地である。しかし、その五〇メートルが、まるで万里の波濤でもあるかのように、旅立ち――出社を前に食事を取る面々の表情はさえない。

「……美鈴は?」

 窓際のテーブルで黙々と箸を動かしていた広山は、目の前の後輩に声を掛けた。食堂に市井美鈴の姿がない、と気付いたのだ。

「さあ。そういえば、来てませんね」

「……あいつ、昨日の夜も食べてないよな」

 言い終えるや否や、手の汁わんを置いて広山は立ち上がった。選手寮二階の美鈴の部屋まで駆けていた。昨日の敗戦の後、あの愛想よし器量よしが、声援にも、インタビューの求めにも、全く反応せず、うつろにたたずむ姿を思い返していたのだ。当日は、自らもファウルアウトをしでかして、チーム敗退の一因となっていた広山だったため、自責の念も強く、美鈴のことまでは頭が回らなかった。しかし、多少なり平静さを取り戻した今は、後輩の様子が尋常でなかった、と思い至るのだった。

 二人は那古野女学院高等学校のOGだ。年齢は三歳違い、同じチームでプレーした経験はなかったが、明朗快活で物おじしない中等部生に、広山は目をかけていた。美鈴をウェヌスに誘ったのは広山である。かわいい後輩、お気に入りの後輩なのだ。

「美鈴! 美鈴! 起きてる!? 開けて!」

 激しいノックにも反応はない。扉に耳を当てても、物音は聞こえない。なおもノックを続けていると、三人ほどが追ってきた。

「スペアキーをもらってきて!」

「はい」

 その場で一番年少の部員が走り去った。やがて、寮長を務めるベテラン部員がスペアキーを持って現れた。扉を開けると何やら異臭が漂ってくる。

「美鈴! 入るよ!」

 広山以下数人が室内に突入した。カーテンを閉め切ったワンルームの薄暗がりに、美鈴はぺたんとへたり込んでいた。手にはスマートフォンを持って、食い入るように見つめている。異臭の正体は、美鈴の嘔吐物だった。口元に、身に着けているジャージーに、床に、もはや乾燥したそれが、こびりついていた。

「ティッシュ! 取って!」

 広山は美鈴を抱え込んで、差し出されたボックスティッシュから立て続けに紙を引き抜き、美鈴の口元、ジャージーを拭った。……このとき、広山は気付いた。美鈴のスマートフォンが発する、ホイッスルの音、そして、どよめき、に。

「寮長。スマートフォン、取り上げてください」

 広山や周囲に目もくれず、美鈴はスマートフォンに没入している。寮長が手を伸ばすと、にらみ付けて、威嚇する。気後れしたのか、寮長は手を出せずにいた。広山は容赦ない舌打ちと同時に、美鈴のスマートフォンを取り上げ、寮長に放った。美鈴はスマートフォンを取り返そうとしたが、大柄な広山に阻まれて果たせない。

 広山の腕の中であがいていた美鈴の動きが急に途絶えた。気を失ったのだ。チームドクターの到着まで、室内は凍り付いたかのようだった。広山は美鈴を抱きかかえ、それ以外は、立ち尽くしたままである。

 美鈴をチームドクターに託した広山が、見ると、寮長が美鈴のスマートフォンを指先でつまんでいる。スマートフォンには、乾いた嘔吐物がべっとりと付着していたが……。広山はスマートフォンをむしり取ると、無言で室内を後にした。十分に美鈴の部屋と距離を空けたところで、広山はスマートフォンを見た。画面に映っていたのは、やはり、昨日の試合の動画だった。どたばたで再生は停止していたが、操作すると美鈴が五つ目のファウルを犯して退場した場面だ。美鈴の五つ目のファウルに対するホイッスルの音、起きたこと、そして、これから起こるであろうことを予感してのどよめき……。

 リピートが設定されていて、スマートフォンは、何度も美鈴退場の瞬間を再生する。一晩中、これを見続けていたのか。嘔吐は、気を高ぶらせ過ぎたためだったのか。

 ハンカチでスマートフォンの嘔吐物を丁寧に拭った。済むと、そのハンカチをくしゃりと握り締める。広山は、天を仰ぎ、嘆息した。

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