第一〇六話 指極星(二二)
郷本信之は孝子の音楽の師匠であった。静が依頼した応援歌の制作にも深く関わり、のみならず応援歌を披露するライブの実現を主導したのも彼という。移動の車内で明かされた事実に、静と那美は驚愕している。
「おじさまを引っ張り込んだのは、失敗だったよ。静ちゃんも、そろそろスマホを買ってもらうだろうし、それにデータだけ入れたら済む話だったのに。こんな大ごとにして。もう」
助手席に座る信之は、にやり、だ。
「そう言わない。妹さんの門出だよ。盛大にやらないと」
「演奏するのが楽しいだけな気がするなあ」
「否定はしない」
「私も、生演奏に合わせるのは初めてで、すごく楽しかったし、まあ、いいんですけど」
「その楽しかったことを、どうして内緒にしようとするの」
那美が身を乗り出して前席の会話に割って入った。
「人に聞かせたって、私は、ちっとも楽しくないもの」
「おじさんには聞かせてるのに?」
本当に、ああ言えばこう言う、だ。孝子による『逆上がりのできた日』の歌唱が明らかになったときも、散々に、本意ではない、とこの人は語っていたではないか。那美は、いい加減にしておかないと、雷撃を食らうことになる。
「お姉ちゃん。私、ライブって、初めてだよ。すごく、楽しみ。歌ってくれるのは、頼んだ曲だけ? おまけはないの?」
「一曲じゃ少ないし。『逆上がりのできた日』も練習してある。一応」
「おおー。アンコールは、あり?」
「なし。私たちが即興でできるやつは、多分、静ちゃんはわからない」
「そっかあ……! 岡宮鏡子ライブを、もっと楽しもうと思ったら、洋楽の知識が必須なの?」
「そうだね。それも、古いの」
「古い洋楽、私も勉強しようかな」
「興味があるなら聞いてみたらいいけど、勉強するのは、反対。続かないよ」
「かもね。楽しくて、続くんだもんね。勉強、って身構えちゃうと、重くなるよね」
……このような調子で、静はしゃべりまくった。那美に発言する暇を与えないためである。おかげで舞浜駅西口の喫茶「まひかぜ」に到着したころには、へとへとになっていた。
「静お姉ちゃん、途中から、ずっとしゃべってたけど、どうしたの」
のんきな心配の声に、静は舌打ち寸前だ。誰のせいだと思っている。お前が下手をやらかして、義姉に轟沈させられるのを防いでやったのだぞ……。と、そこに孝子の手が伸びてきた。静の頭の上に乗せられると、くしゃくしゃとなでてくる。配慮が伝わっていたらしい。報われて、疲労も吹っ飛んだ。
店内には音楽家の剣崎龍雅と老マスターの岩城が待っていた。貸し切りの喫茶がライブの会場だった。静と那美の前にコーヒーが供され、演者たちは額を集めて打ち合わせを始める。ボーカルの孝子を剣崎と信之がギターで支える布陣らしい。
神宮寺姉妹がコーヒーを飲み終わったころ、演者たちにも動きである。期せずして、だろう。まとっていた上着を一斉に脱ぐと、そろいのサスペンダーだ。
「あ。おそろい……?」
「恐れおののけ。われらこそ『ザ・ブレイシーズ』だ」
「聞いたことないけど……」
薄い胸を張った義姉に、どう対するべきなのか。戸惑う静の声は、おのずと小さくなる。
「ブレイシーズは、イギリス英語で、サスペンダーのことだってね。あちらのご老体が若いころにやってたバンドの名前を引っ張り出してきたんだよ」
「誰がご老体ですか。私のほうが年下ですよ」
岩城の解説に、しゃらしゃらとギターを鳴らしていた信之が笑う。
「おじさまが、そろえてきたの。こうなると着けないわけにもいかないし」
「着け心地は、どう? 結構、太いひもだけど、気にならない?」
静は革製のひもをつついた。
「女は肩ひもには慣れてるものじゃない」
「でも、ケイちゃんは、肩ひもなくても生きていける体型だよ」
愚妹が、また、余計なことを。静は隣の那美をにらんだ。
「……那美に、そのせりふを言う資格があるの?」
那美も義姉と同じく、肩ひもがなくても生きていけるような体型をしている。
「なかった!」
火消しは、今回も奏功したようで、孝子から二度目のお褒めだ。そばでは大人の男たちが粛々とほほ笑んでいた。わきまえた振る舞いといえた。
ライブが始まった。演目は二曲だ。『逆上がりのできた日』と孝子が静のために制作した『指極星』という楽曲である。
孝子の歌唱を直接、耳にするのは二度目の静だった。一度目は、海の見える丘で座興程度のものを聞いただけなので、本気を体感したのは、これが初めてだ。まるで違った。映画『昨日達』のサウンドトラック中の歌唱とも異なっていた。音の圧とでも表現するべきか。剣崎と信之はコーラスとしても参加しているのだが、大の男の声が、かき消されてしまいそうになっている。
楽曲の内容も素晴らしかった。共になだらかな曲調で、歌詞も前向きだ。『逆上がりのできた日』は、昔、できなかった逆上がりが、今はできる、と成長をたたえている。そして、『指極星』だ。指極星は、極星を指向する星の組をいう。勇気と希望の指極星をしるべに、極星を目指せ、とは暗示的ではないか。極星と称するにふさわしい北崎春菜に挑む静の真情をおもんぱかった応援歌といえた。
体の奥底から湧き上がってくる感情に、静は打ち震えていた。紛れもなく、この思いはしるべとなる勇気と希望だ。どうやら岡宮鏡子は、最高のはなむけを贈ってくれたようであった。




