オレンジの月が捕食者を誘う
俺たちは“鱗”を持つ“有鱗族”だ。昔はどうあれ、現在は、さまざまな属性とそれに伴う能力を隠し、
人間社会に溶け込んでいる。だが、たまにハメを外して、種の持つ本能のままに人間社会を引っかき回す連中が現れる。それを“処分”するのが俺の仕事。
月が怪しく輝く夜は、種の本能が刺激されやすくなる。こんな夜は特に危険だ。
歯止めの利かなくなった連中が、隠し続けていた欲望の鱗をむき出しにして、新鮮な血肉を求めて街を彷徨い始める。まるで回遊魚のようにただ本能に任せて、血で鱗を湿らせながら・・・・。
1.欠けた月の夜
東洋で一番高いと言われているタワーの向こうに、いびつに欠けたオレンジ色の月が見える。
こんな夜は要注意だ。
月の満ち欠けと色は、“有鱗種”のバイオリズムと密接な関係がある--なんて面倒臭い言い方をする奴もいるが、要するに、テンションが上がりすぎて危険だって意味だ。
なぜ危険かって言うと、テンションが一線を越えると、“変容”をコントロールできなくなる。そうすると、いつもは大人しくしている物が、表に出たいと主張し始めるんだ。
外に出て、月の光を浴びて濡れたように輝きたいって、囁くんだ。
何がって?
“鱗”さ。
鱗がそう囁くのさ。
我慢できずに、赤青黄、金銀、オーロラ、斑色・・・・あらゆる色の艶々と輝く、薄く、それでいて鎧のように固いて刃物のように鋭い鱗が、からだ中のあちこちに、ゆっくりと浮かび上がってくるんだ。
それこそが、俺たちが“有鱗種”と呼ばれ、鱗のない連中に忌み嫌われた理由ってわけだ。
俺は、俺の一部が騒ぎ出す前に月から目を逸らし、カーテンを閉めた。こんな夜はさっさと寝るに限る。部屋を真っ暗にしてベッドに潜り込み、数えたくもない羊を数え始めたとき、どこからともなく携帯電話の着信音が響いてきた。
発信者:白世南美。
沖縄に生息するミヤコカナヘビと同じ、美しく艶のある“鱗”とミヤコカナヘビに負けない柔らかな肢体を持つ同族だ。
「悪いがもう寝てる」
電話に出るなり、俺は言った。
「寝てていいから聞いて。コモドドラゴンさん」
「コモドドラゴンじゃない。甲元龍だって言ってるだろう」
声を聞いただけで美人だと断言できるような、そんな甘たるくて愛くるしい声だ。
まるで夏風に揺れる風鈴のように耳障りがよく、大きすぎず、小さすぎず、自然に優しく耳に入ってくる。もし南美が声優になっていれば、いまごろ大人気だったろう。
だが俺は、風鈴も女も声優も嫌いだ。
さらに、入ったばかりのベッドから引きずれ出されるのは、もっと嫌いだ。
「じゃあ聞いて、同族ハンターの甲元さん」
「聞きたくない」
はっきり言ったはずだが、彼女には聞こえなかったようだ。
「今日の夕方、旧台場の人工河川敷で、死体が発見されたってニュース、見た?」
「見てないし興味もない。それがどうした。この街じゃ、毎日どこかで死体が見つかってるんだから、珍しくもない」
「ところがそうもいかないの。死体は二つ。一つは男で河川敷の草むらで、全身に打撲跡と擦過傷という姿で発見された。もう一つは若い女で、男の死体から二〇メートルほど下流で、水に浸かった状態で発見された。女の遺体は損傷が激しいって・・・・。ニュースではそこまでしか言ってなかったけど、知り合いの刑事の話だと、腕と腹の一部がなかったそうよ」
「なかった?」
「そう、欠損していたの。それも、刃物で切ったというより、大型動物に水中で食いちぎられたような感じだって。例えば鮫のような・・・・」
彼女はそこで言葉を止め、俺は大きなため息を吐いた。
「新首都の環流水を流しているような人工河川に、鮫なんかいるわけないだろう」
「いてくれた方がありがたいわ」
何とも言えない素敵な声。
だが、話していることは最悪だ。
鮫はそんなことはしない。するとしたら・・・・。
「陸上と水中で同じように活動できる両生類族で、男はいたぶるだけ。好物は若い女の肉--となれば、やった奴の見当はつくはずだ。心当たりがあるんだな?」
「八日前に、ホスピタルのD病棟を脱走した同族がいるの。そいつがやったのかは分からないけど、いまのところ一番怪しいわ。新首都で暮らしている同族はみんな社会に同化して、表向きは普通の人間として生きている。仕事があって家族もいる者は、こんな馬鹿はしないはずよ」
「仕事があって家族がいても、馬鹿をする奴は大勢いる。鱗のある奴もない奴もな」
「それはそうだけど」
「ホスピタルに入れられた理由は何だ? D病棟ってことは、“重度の疾患”があったんだろう?」
「表向きは、総合神経失調」
「なるほど。自分をコントロールできないのか」
「そういうこと。野放しにしておくと人間に迷惑がかかる。だから入院させたらしいわ」
だとしたら、今夜みたいな日は、自分を見失って後先考えずに生き餌に飛びつくにはぴったりだ。
それにしても「入院」とは、よく言ったものだ。
ホスピタルは、行政区分では東京都に入るものの遙か数百キロも離れた太平洋上の孤島にある。有鱗族にとっては刑務所と同じだ。
「肉食なのは間違いないだろうが、その野郎の属性は何だ? 魚か蛇か?」
「カルテによるとピラルクに最も近い。だから水中での行動も苦にしない。変容すると、全身にアロワナ属特有の灰緑の鱗と左右の顎に鋭い犬歯が現れる。凶暴性が強く、過去にも二度、人間に危害を与えたことがある」
確かに、それだけで充分に怪しい。
だが俺には、一つ気にくわないことがあった。
「脱走したのは八日前だろ?」
「ええ」
「なぜ今ごろ俺に? この一週間何をやっていたんだ」
「すぐに見つかると思って、関係者だけで捜していたようね。何か起こす前にホスピタルに連れ戻せば、問題にはならないと甘く見ていたに違いないわ」
「だが問題は起きた。俺に連絡してきたってことは、もう連れ戻さなくてもいいってことだな?」
分かりきったことだが、一応俺は念を押した。これも仕事の手順のうちだ。
「もし犯人ならね」
「それだけ条件が揃ってるんだ。犯人に決まってる」
「そうね。詳しい資料を送るから、とにかくまず見つけてちょうだい。ただし、いつも言ってるように、“処分”するのは確かな証拠を見つけてからよ。証拠がないうちは絶対に手を出さないでね。そうでないと、ユニオンの長老どもがうるさいから」
「分かってる」
「有鱗族が裁判を開かないのは、処刑人を信用しているからよ。そのことを忘れないで」
「もちろんだ。自分を抑えてじっと身を潜めていくことが出来ない野郎なんだから、すぐに尻尾を出すさ。これ以上死体を出されたら、同族みなが迷惑するからな」
「頼んだわよ。そうだ、言い忘れてたけど・・・・」
南美はわざとらしく言葉を続けた。「野郎じゃなくて、彼女よ」
「何だと?」
「脱走したのは女だったわ。あなたの大嫌いな、オ・ン・ナ」
勝ち誇ったように言うと、南美は電話を切った。