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金木犀  作者:
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 何故自分なのだろうか。何か悪いことをしたわけでもないのに。そう思うことは当然あったし、病気を神様を恨んだりもした。

 しかしそのことよりも、自分が何とか冷静でいられる今の時期に全てを解決しようという考えの方が頭を支配していた。だがそれは自分の人生だけではなく、大勢の人生をも巻き込んでしまうものだった。そのことは私なりに理解している。

 そして私はそれを実行に移した。先ほどの同僚いや、友人とのやり取りはこうだ。


「お前……。何言ってんだよ」

 口だけは動いていても他の動作は全て止まっていた。

「頼めるのは、いや、妻にはお前しかいないような気がする」

 フリーズが解たようだ。彼はカウンターに肘を乗せ、両手の親指をこめかみに当てる。考え込む彼に話を続けた。

「再婚する気持ちってまだあるよな?」

 以前から良い人がいれば、という話は聞いていた。

「それとこれとは別の話だろ」

 彼にとってはそうなのだろう。

「うちのカミさんじゃ駄目か?」

「良いとか駄目とかそんな問題じゃねえんだよ。お前はそれでいいのかよ」

 それでいいのかと聞かれると、それは嫌だ。例え気の許す友人とはいえ、愛する妻と彼とが一緒になるのだ。一緒になるということは……。その先については考えないようにするのだと自分に言い聞かせた。

「ああ、気持ちは固まってる」

「勝手だなあ、おい」

「お待たせしましたハツとぼんじりです!」すっかり注文を忘れていた彼は、店員の声のボリュームに驚いた様子を見せた。店員は私たち二人の異様な空気には感づいていないようだった。

「もうじきあの世に行く身だ。勝手くらい言わせてくれよ」

「まあ、お前の言いたいことは分かった。けどそれを成立させるためには、俺とお前の奥さんの意向だってあるわけだろ?」

 問題はそこである。もっと言えばお互いの子供の意向も含まれるだろう。

「成立しなければ、僕は死ぬ。保険金と退職金で少しの間は家族も生活できるだろうしな」

「死ぬって何だよ」

「死ぬって死ぬってことだよ」

「自殺するってことか?」

「まあ、そういうことだ」

 あっけらかんというのはこういうことを言うのだろうと思った。でも逆の立場であったとするならば、そうなるのも分かる気がした。

「それじゃ脅しだな」

「すまない」

 そうとしか言えなかった。

 結局この話が続くことはなかった。それは彼の私に対する配慮だったのだろうと思う。

 

 自宅に着いたのは夜十時を少し過ぎたところだった。リビングに俊介の姿はなかった。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 夫婦として当たり前の会話。こんな当たり前のやり取りがいつまで続くのかは、全て自分が握っている。

「今日は少し早かったわね」

 昨夜の告白についての動揺を微塵も感じさせないのはこの妻の凄いところだ。

「実はさっきまで江藤と飲みに行ってた」

「あら、たまにはいいじゃない。息抜きも必要よね」

 シンクを洗う手を止めて、連絡もしなかった私を責めることもせず、優しい言葉をかけてくれる。

「ちょっと話がしたいんだけどいいかな?」

「ちょっと待ってて、もうすぐ終わるから」

 待つ間にお風呂にでも入ろうかと思ったが、気持ちが揺れる前に話しておかなければならない気がしたため、帰宅したのも束の間、ダイニングテーブルに腰掛けた。

「お待たせ」

 相変わらずいつもの妻に変わりはない。そんな様子が私の決意を鈍らせる。しかし妻を家族を愛するからこそ決断しなければならないのだ。

 正面に座ろうとする妻の様子が変わったのは、私の表情を確認したからだろう。そのことは分かるが、自分が一体どんな表情をしているのかは分からない。

「もう家事は済んだのかな?」

「ええ、あとはあなたにおつまみを出すだけよ」

 いつも軽く食事を済ませてくる私に対し、妻は必ず何かを用意してくれている。いつ頃からだろうか、それが当たり前だと思うようになったのは。

「そうか……」

「昨日の続きのことよね」

 どこから話を切り出そうかと考えていると、妻の方からきっかけを与えてくれた。

「うん、まあ、そう」

「つまみながらにします?」

「いや、いい」

 発泡酒片手に話せることではない。うんうんとゆっくり相槌を打つ妻に、どれだけ自分の思いが伝わるだろうか。そんなことを考えながら話を切り出した。

「今日、色々考えたんだ」

 本当のことを言えば昨夜からほとんど寝ることなくこのことばかりを考えていた。

「はい」

 妻は真面目な学生が授業を聞くかような姿勢で私を見据えている。その目は彼と同じく真剣な目をしていた。

「昨日言ったように病気になったことは事実だ。その現実を変えることはできない」

「……はい」

 少しの沈黙後、妻は返事した。

「早くて五年、遅くても十何年で僕はこの世からいなくなることになる」

「それは違う!」

 怒りが混じったような表情からは、これから妻が何を言い出すのか予測できなかった。

「私も色々調べてみたの」

……。

「美香。あなたも知ってるよね」

 それは中学の頃の同級生だが、その名前を聞くのはしばらく振りだ。

「あの子、精神科の看護師なの。今は薬の進歩もあって進行を抑えられるって聞いたわ。この世からいなくなる?勝手なこと言わないでよ!」

 同級に知られたとなると、あっという間に広がっていくのだろう。しかし私に妻を責める権利はない。

「ねえ、家族で頑張っていきましょうよ」

 切実に話す妻を前に、何かが込み上がってくるのを感じた。しかしそれがどういう感情なのか掴むことができず、ただ妻の赤い目を見ることしかできなかった。

「一人で悩むのはよして。私だっているのよ」

 妻の頬に涙が通過した。その速度で感情の強弱を示すとするならば、妻の感情は最大に近いのだと思う。頬を経過した涙が顎をつたり、一か所から零れ落ちる。

 私は間違っているのだろうか。

 家族に迷惑を掛けたくない。それが妻や息子に対する最大の愛なのだ。そこが揺らぎ家族に甘えてしまえば、いつか必ず破綻する。経済的な困窮に陥り、介護が必要となり、行きつく先は負のスパイラルだ。

 それでも私のしようとしていることは間違いなのだろうか。急に自分の抱えている病がどうしようもないほど憎らしくなってきた。

 人は生まれながらに平等だ?

 時間は誰にも平等だ?

 そんなものは平凡な日常生活を送る者が言う台詞であって、毎日苦しい思いをしている者にとっては単なる虚言にしか聞こえないのだ。

 この世に平等など存在しない。

 この世に神様など存在しない―。

 気が付いた時には泣いていた。妻の前では泣かないと決めていたはずなのに、私の感情はそれを留めようとはしなかった。

 生にしがみつく生き方だけはよそう。

 死を恐れながらも生きていこう。

 家族とともに生きていこう。

「本当にすまない」

 声にならない声で謝った。

「本当よ」

 妻は鼻詰まりの声で、言葉だけを取ればとんでもない冗談を言った。


 木製キャビネットの上のステンドグラスが部屋の一部を優しく照らす。闇の中に宿るその淡い光を、私たちは同じ角度から眺めていた。

「男の子だったらあゆむっていう名前にしようと思うの」

 妻は私の右手をお腹の上に当てながらそう言った。

「どっかのラグビー選手みたいな名前だなあ」

「何言ってるのよ」

「でも何で?」

「みんなで歩んでいくのよ」

 顔をこちらに向け、妻は言った。これは決定事項よ、とでもいうかのように。

「じゃあ女の子だったらどうするんだい?」

「女の子だったらあゆみにするのよ」

 笑いを堪えた時に鼻から息が漏れた。

「あなたバカにしてませんよね?」

 やっぱり妻は最高だ。それだけに本当に自分の病が悔やまれる。

 しかし病を前向きに捉えるとするならば、私は今回の出来事をきっかけに幸せの形の輪郭を掴んだような気がする。

 人は生まれながらに平等などではない。

 時間は誰にも平等などではない。

 けれども、死が訪れるということだけは全ての人間に平等で、幸福というのは死期が迫るにつれてその形が形成されるものだと私は思う。

 つまり今、自分の幸福の形が形成されつつあるということだ。

 妻との何気ない会話。

 息子の無邪気な笑顔。

 友人と酒を飲み交わすこと。

 毎日綺麗な服を着られること。

 歯磨きできること。

 生きていること。

 そんな当たり前のような日常こそが、私にとっての幸福の形だったのである。

 それを教えてくれたのが妻であり息子であり友人であり、アルツハイマーという病なのかもしれない。

 時間は平等などではない。一日の長さが二十四時間であるといった、時計で計る長さのことを言えば確かにその通りだ。しかし、その時間を有効に使える能力に差があるのだ。そこには自分の意思などは関係なく、ただただ虚無感に苛まれながら過ごすことを余儀なくされることもあるだろう。そう考えればやはり時間が平等だというのは、健常者の角度からしか物事を捉えていない証拠だ。

 この世の中は不平等だ。

 神様は残酷だ。

 けれど……。

「生まれてきて良かった!」

「急にどうしたのよ」

 自分なりに辿り着いた、君に対しての最大の感謝の言葉。どんな感謝の言葉より伝わらないだろうが、それでいいのだ。

「何でもない」

「もう何なのよ」

 いつかきちんと言葉にして伝えよう。

 妻に届くように、何日掛かっても、何年掛かっても。

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