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金木犀  作者:
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 携帯アラームで目を覚ます。本来、一日のルーティンはここから開始されるのかもしれない。電話の終了を意味するボタンを押しアラームを停止させた。

 何も変わらなかった。固すぎない目玉焼き、程よく焦げ目のついたウインナー、湯気の立つ白米に、味噌の香り漂うお味噌汁。

「パパ、いってらっしゃーい」

 妻と俊介が私を見送る。日常、非日常。日常、非日常……。何が日常で、何が非日常なのだろう。

 三日振りに見る社内の風景に変わりはない。いつもと違うことと言えば、小宮の他に数人の人間がいることだ。電車の中で新聞を読むことを辞めた私は、上司の嫌味な言葉からどのようにストレスを回避しようかと考えていた。それを今から実践に移すのだ。これもリーマン病の一種なのだろう。

 課長席は係長以下の私たちの島とは机二つ分程離れており、事務椅子も数ランクアップされている。若い頃は私もあの離れ小島を目指したものだ。しかしいつ頃からだろうか、それを諦めたのは。

「小宮課長」

 目の前に立っているので私という存在の確認はできているはずなのだが、その男の目は決裁書類にしか届いていないようである。

「急なお休み申し訳ありませんでした」

 耳が悪いのだろうか。私より五つ程年上なはずだ、年齢的に考えてもそれはないだろう。しばらく待っても反応がないため、自分のデスクに戻ることにした。

 一体何なのだろう。嫌味や叱責の台詞を予想していたために生じた自分の心の違和感なのだろうか、気分が優れない。思考を仕事モードにシフトしようとするがレバーはアクセルに入らなかった。

「よう」

 江藤だった。いつの間にいたのだろうか。

「そういえばカミさんに連絡してくれたんだってな」

「ああ、そんなことよりどうだったんだ?体の方は」

 そう。こいつにだけは話しておこうと思っていたのだ。

「実はちょっと訳ありなんだ。今日行けるか?」

 グラスを傾ける仕草でその意味を伝える。

「そういうことならオーケーだ。それよりお前のいない間大変だったぜ」

 一瞬振り返った江藤の視線があの嫌味な上司に向けられたことを確認する。

「どういうことだ」

「柴田興業の件、結局課長が処理したって話さ」

 離れ小島には背を向けているため、小声であれば打ち合わせをしていると見えるだろう。しかし柴田興業の件というのが何のことなのか腑に落ちない。

「柴田興業が何かあったのか?」

「お前何言ってるんだよ。急な仕事が入っただろうが」

……。

「まあこの件はもう落ち着いたから心配いらないけど、ここ数日あいつ顔真っ赤にしてたぜ」

 それは皆さんお気の毒に。嫌味などではないし、心の中の台詞に気を遣う必要などはない。それよりも柴田の件というのが気にかかる。

「とりあえず、いつものところで七時でいいか」

 物思いに更けていた私の先手を打って、行き先の指定をされる。というよりその場所以外に思いつかないのも事実ではある。

「了解」

 そう告げて、数日分の書類が溜まったデスクに向かった。


 派遣社員の恒例儀式が始まった。「お先に失礼します」という彼女たちの表情に、残業が当たり前の正社員に対する敬意は感じ取れない。当然といえば当然ではあるが。

 目の前の書類が減ることはなかった。言い訳をするならば、数日デスクから離れた結果、仕事の要領を得るところからスタートしたため、とでも言っておこう。さらに付け足すとすれば、昨夜のあの出来事が尾を引いていた。

 数日休んだ上、復帰明け初日に早く帰宅するのは気が引ける。しかし私にはするべきことがあるのだ。そう、家族のためにできることを探さなくてはならない。病み上がり。その言葉を理由に退社した。


「こっちこっち!」

 江藤は既にカウンターに腰を落ち着かせていた。カウンター席と座敷は半々、満員時には最大で二十人程入ることのできるその小さな店は、職場から徒歩二十分、普段利用する地下鉄からさらに十分程歩いた場所にあった。入社当初の歓迎会後、諸先輩方の語る話に嫌気が差した私たちは、二次会だと盛り上がる周囲に反して二人だけの二次会を行った。その場所がこの焼き鶏屋だ。

 年季の入った柱に取り付けられているフックにジャケットを掛ける。

「待たせたな」

「待ってはないさ」

 そう言いながら彼は、既に半分程減ったジョッキを持って見せる。

「今日はどこに行ってたんだ?」

 午後から彼の姿を見ていなかったので聞いてみた。

「実は鈴木企画の見積りの数字に、上の方が納得いかないみたいでな」

 それは初耳だった。鈴木企画のことであれば私に話が回ってきてもおかしくないはずだ。

「それでどうなったんだ?」

「結局、鈴木の経費削減の意向は変えられなかったよ」

 どうやら私が休んでいる間に起こった出来事のようである。

「それは大変だったな」

 店の親父の様子を伺い、生ビール二つと串の盛り合わせを注文した。

「それよりお前の方はどうだったんだよ」

 どう、というのはつまりあのことだろう。

「……。驚かないで聞いてほしい」

 彼の串を頬張る手が止まった。

「……。ああ、分かった」

 只事ではないと察してくれたのだろう。

「実はな、若年性アルツハイマーの診断を受けた」

「………。本当かそれは」

「ああ、恐らく間違いない。言われてみればそうだなっていう自覚症状もある」

 息を飲み込むために喉を鳴らしたのは、彼にも心当たりがあったからかもしれない。

「それでどうするんだよ。会社辞めるのか」

「うーん、どうすればいいと思う?」

「どうすればってお前なあ……」

「お待たせしました生ビールです!」元気の良いアルバイト店員とは裏腹に、隣の同僚は投げかけられた難題に頭を抱えている。店内は半分程席が埋まっており、平日にも関わらず比較的繁盛していた。客の十割と言ってもいいだろう、サラリーマンたちはその日の鬱憤をこの場で晴らすかのように賑っていた。

「一個質問」

「二個でも三個でも」

「家族には話したのか?」

 家族という単位に息子も含めるならば答えはNOだ。しかし彼の意図はそういうことではないだろう。

「ああ、昨日話した」

「で、何て言ってたんだ?」

 昨夜の出来事を思い返す。妻とは今後の生活について何も話していない。

「昨日は病気を伝えただけ。ただそれだけ」

 妻の妊娠については控えた方が良さそうと判断した。余計な情報を彼に与えてしまうと肝心な本題から話が逸れてしまうと思ったからだ。

「お待たせしました串の盛り合わせです!」相変わらず元気の良い店員がカウンターテーブルにお皿を乗せてくれる。教育ができているのか、それともこの女性の持った性格なのだろうか。

「参った」

 しばらく考えた挙句、彼はそう言って降参のポーズを取って見せた。それはそうだろうなと思う。

「医師からは今のまま仕事を続けるのは良くないと言われたよ」

 それは、職場の理解や配慮があるのならば仕事を減らせという意味でのことだ。

「良くないって、それは分かるけどお前の気持ちはどうなんだよ」

 自分の気持ち。それを言うならば、今の生活を続けていきたい。けれど現実的な話をすればそれは難しいということも理解している。今の私は明日の生活さえ危ぶまれているのだ。

「実は勤務中に色々調べてみた」

「何をだよ」

「この歳で発症した場合の末路。それに残された家族のこと」

 インターネットというのは便利である一方、情報量が多すぎて何が真実で何が偽りなのか判断力を必要とする。しかしその中でも確実な情報というのは存在し、そういった情報を羅列してみると、自分の置かれている立場は言ってしまえば地獄の淵だということが分かる。そしてそこに足を踏み入れようとしている。

「ちょっと話が飛び過ぎてないか?」

 確かに彼の言う通りだ。

「そうだな、すまない。けど現実を知っていないと話は前に進まないかと思ってな」

「現実って何だよ」

 動揺が見て取れる。それは踏み込んだ話になるということを理解してくれているからだろう。

「前にも相談したと思うが、今の状態は初期症状だと言える」

 カウンターに肘を付き、相槌を打つ同僚に続けて説明する。

「けど、日常生活にそれほど支障があるというほどでもない」

「ハツとぼんじり二つずつ!それと生おかわり!」

 同僚が会話のタイミングを図った上で、威勢よく注文する。

「問題は数年後。三年から五年で人の援助なしでは生きていけなくなるそうだ」

「早いな」

 彼はジョッキを傾けながら短く言う。

「それはあくまで平均的な数字であって、若年性の場合は進行が速いこともあるらしい」

 さらにそこから五年程で歩行不全になり寝たきりに近い状態がやってくるということは伏せておいた。

「ちょっと待てよ、それなら仕事だなんだって言ってる場合か?」

 その通り。

「今から突拍子もないことを言うかもしれない」

「もうここまで来たら何でも言ってくれ!」

 酔いが回ってきたのだろうか。酒の勢いが彼の覚悟を後押ししている。

「仕事は辞める」

 彼が何かを言いかけたが、それを待つことはしなかった。

「紀子と一緒になってくれないか」

「お待たせしました生ビールです!」元気な店員のその声は彼に届いただろうか。フリーズという症状は電子機械だけではないのだということを同僚は教えてくれた。

 どうやってもう一度話を切り出すべきかを考えながら、彼のフリーズが解凍されるのを待つことにした。

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