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金木犀  作者:
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 ビニールの擦り合う音で目を覚ました。

 体を起こすと意外にもいつもの体の軽さが戻っていた。頭痛も感じられない。

「ごめんなさい。起こしちゃったわね」

 妻が歯ブラシやら下着やらを整理していた。

「いいよそんなこと。それより何でこんなことになったのかなあ」

「あなた会社で突然気を失ったのよ。たぶん過労じゃないかって」

 確かにここ数か月、残業は勿論、休日出勤も当たり前のようになっていた。

「そういえばまともに休んでいなかったからな」

 とは言ったものの、体の疲れで意識を失うことなどあるのだろうかという疑念が生じた。自分の体は自分で理解している。

「色々検査があるからって、一応着替えとかここに用意しましたので」

 安っぽいパイプ椅子に腰を落ち着かせた妻の視線の先には、もう何年も使用していない旅行鞄があった。何だか申し訳ない気持ちになる。

「何か大袈裟なことになってるんだな」

「本当よ、江藤さんから電話をもらった時びっくりしちゃった」

 彼が電話をしてくれたのか。いらぬことまで話してなければいいのだが。

「じゃあ、今度お礼でもしなきゃな」

「そうね、江藤さんのところの子はもう中学生でしたっけ?」

 中学の野球部でレギュラーを張っているということと、なかなか試合の応援に行ってやれないことを彼から聞いていた。

「ああ、早いもんだなあ」

 そういえばここしばらくの間、息子の学校生活の話を聞く機会がなかったことを思い出した。

「俊介はどうだ、成績は相変わらずか」

「ええ、体育と音楽は△だったわよ。一体誰に似たんでしょうね」

 三学期の成績のことを言っているのだろう。しかしその後の言葉は聞き捨てならなかった。

「あのな、中学は体育も音楽も平均的な評価だったぞ。君も知ってるだろう」

 私と妻は小・中学時代の同級生だった。

 三十歳という節目の年に行われた中学校の同窓会で、お互い独身ということもあり急速に接近することになった。というより学生時代、彼女に恋心を抱いていた私の方が一方的に近づいたのだ。

「それはペーパーテストのおかげでしょ!」

 確かにその通りだ。私は運動と歌うことが苦手であった。しかしはっきりそう言われると気持ちの良いものではないことは確かだった。が、そんなことは言えない。それはアプローチをした側とされた側の隔たりのようなものが理由なのかもしれない。

 夕食の準備があるという妻をベッドの上から見送りつつも、山のように書類が溜まっているであろうデスクを想像していた。

 こんな時でも会社のことを考えてしまうものなのだと、改めてサラリーマンという生き物の不条理さを感じた。


「しばらく戻ってこなくてもいいぞ」

 そう言って同僚の江藤は労いの言葉をかけてくれた。そういう言い回しが逆に私の心を安定させるということを彼は知っているのだ。一方で。

「この忙しい時期にやってくれたな」

 生理的に合わないという表現は間違いなのかもしれない。私はこの小宮という上司が嫌いなのだ。これまで嫌いと認識してこなかったのは、心のストレスを軽減させるためだったのだろう。

 適当に謝罪を済ませ電話を切ると、溜め息が出た。全く持って無意識だったため自分でも驚いてしまったではないか。

「佐藤さーん」

 病院のユニフォームであろう、ピンクの作業着を身に纏った看護師が私の名前を呼んだ。きっとこれから検査が始まるのだ。しかし頭では白衣の天使という表現がこの先少しずつ失われていくのだろう、と、全く別のことを考えていた。寂しいものだ。


 血液検査やら脳の検査やらが終わり、ようやく解放されたのは夕方五時過ぎだった。検査に時間が掛かるというより、一つ一つの検査の合間の時間が長かった。大学病院というのは様々な科があり便利である一方不便でもあるのだ。

 明日にでも医師から結果が報告されるという。それまでの間の過ごし方を考えると頭が痛い。日頃仕事ばかりに更けていると、こうやって急に時間が空いた時の過ごし方に苦慮するのだということを知った。そして今のまま仕事人間が続いていけば、老後を楽しむことなど到底できないだろうと将来を嘆いた。

 私はとりあえず、自動販売機や公衆電話が並ぶ場所を目指した。その目的はテレビを視聴するために必要なプリペイドカードを購入するためだ。

 目的の場所へ到着すると、まずはカフェインゼロが売りだという麦茶のペットボトルを購入した。そして本来の目的である腰ほどの高さの自販機を目の前にする。五百円・千円・二千円という、思っていたよりも高額なそれを目の当たりにし考える。

 病室に戻ろうと足を進めると、病院スタッフが夕食の準備をしていた。その光景が、小学生の頃に給食が運ばれるあの大きな貨車を連想させ、何だか懐かしい気持ちになった。

 わかめご飯、鶏肉のみぞれ煮、ほうれん草のポン酢和え、キャベツのゴマ和え、お味噌汁。

 さて、このメニューを妻に言葉で伝えたとして、どういった返事があるであろうか。答えは簡単だ。

(あら、いいじゃない)

(いやいや、じゃあ実際に見てみろよ、ザ・病院食だぜ)

 そんな妄想をしながらテレビを眺めるが全く頭に入ってこない。大柄なニューハーフタレントがテレビ画面を大きく占領していることだけは確かなようだ。

 五百円で十時間視聴できるというそのジョーカー的なカードは、長期的にこの病院に入院している患者にどのように捉えられているのだろうか。

 しかしそれを想像するのは、様々な理由で入院をしている人々に対して無礼な行為のように思え、止めにした。病室と名の付く場所にこそ居はするが、私は病人ではない。 

 とにもかくにも、明日で退院するのだ。今の私には十時間もの時間は必要ない。時間を余らしたジョーカーは、あの腰ほどの高さの自販機の上にでも寄付をしよう。いやジョーカーというのはもうよそう。うーん……テレカ。

(あなた、それは死語よ)

(おいおい、NTTの社員に聞かれたら怒られるぞ)

(あなたってバカねえ)

(あのなあ、ユーモアって分かるか?それに思ったのだとしても馬鹿というのをストレートに言い放つ人間はどうかしてると思うぞ)

(どうかしてる?それってどういう意味よ!)

(それはね、平均的な国語力があれば分かることなんだよ。いや道徳力と言った方がいいのかな?)

(それって私のことバカにしてますよね?)

(それは誤解だよ。僕は君のことを愛している)

(あなたってバカねえ)

 ……。

 眠りの深さは関係なしに、本来人が眠るべき適切な時刻に眠りにつけたのは久し振りのことだった。

 

 雀の鳴き声で目を覚ますというのはいわゆるド田舎の話か、もしくは幻想か。カラスの鳴き声で目を覚ますというのは都会の話であり、現実だ。同じ鳥類ではあるが、こんなにも目覚めに差があるという事実にカラスたちには同情したいと思う。雀が何だってんだ、燕が何だってんだ。

 もうメニュー表など確認しない。その理由は、食物を胃の中に入れるという作業にしか過ぎないからだ。それでも味付け海苔だけは私の味覚をほんの少しだけ刺激した。

 今回の入院の終わりを告げる最後の医師との面談は、はっきり言って心地の良いものではなかった。白衣を着た医師は少なくとも私より一つや二つは年下であろう。それで、簡単に言えばこんな話だ。

 今回のように最近意識を失うことなどありましたか。答えは、NOだ。が、私はここ数日の悩みであった、夢と現実が曖昧になったあの出来事を話した。すると医師は、記憶障害や見当識障害の一種だということ、仕事量を減らした方が良いということを話した。さらに話はプライベートなことまで及んだ。つまり妻と上手くいっているのかという質問をぶつけてきたのだ。意味が分からなかった。何故そのようなことまで今日初めて会った他人に話さなければならないのだ。「さあ」と、若干の敵意を込めて答えた。例え医師という特別な資格を持つ者であろうと、素直に答える必要などない。

 しかしこの直後に医師から飛び出した言葉は、煙たい態度をとった私の言動を否定するものではなく、テレビなどでよく耳にするようなある病名だった。

 こうして私の入院生活は終わりを告げた。


 プロ野球は既に十試合ほど消化されていた。こうやって発泡酒を片手に野球観戦できるなど久し振りのことだ。

「今年もやっぱり巨人かな」

「何を言ってるんだよパパ」

 何気に言った言葉に息子が食いついてきた。野球を見るようにでもなったのだろうか。

「だってそりゃあ、選手層が違うだろ」

 選手層という意味は理解できるだろうか。言ってから気がついた。

「東京ヤクルトにはトリプルスリーがいるんだよ」

 ほお、一丁前のことを言うようになったものだ。

「トリプルスリーって何のことだ。新種の恐竜か?」

 分かっていて聞いてみた。

「打率が三割でしょ、ホームランが三十本でしょ、盗塁が三十個のことだよ」

 驚いた。息子の成長ぶりにというのもあるが、息子が野球に興味を持っていたということの方に驚いたのだ。

「ちょっと、恐竜ってなによ」

 やり取り見ていた妻が口を挟む。しかしそこを突っ込むのかよ。

「いやあの……。トリプルスリーとトリケラトプスを掛けてみたんだよ。高度なテクニックだろ?」

「それは世間ではおやじギャグと言うのよ」

 ぐうの音も出ないとはこのことなのか。

「パパ、おやじだって!」

 ああ、そうさ。私は君の親父なのだ。

 それにしても、家族とこうやって当たり前に過ごすことが、これほどにも安心感や幸福感を与えてくれるなんて……。

 それだけにあの医師が放った言葉が重たく圧し掛かる。

「……あなた?」

 妻と息子が何やら心配そうな面持ちで私を窺っていた。

「ああ、トリケラトプスと言えばティラノサウルスだよな」

 何を言っているのだ。自分の口から出た言葉に後悔する。

「そういえば検査の結果どうだったの?」

 そのことを考えていたのだよ。タイミングが良いのやら悪いのやら。いや妻は恐らくきっかけを待っていたのだ。結果的にそれがティラノサウルスの後だったというだけで。

「やっぱり疲れからきてるみたいだってさ」

 疲れの様子を演技する。役者というのは特殊な職業だ。

「だったら早く寝た方がいいわよ」

 その言葉は有り難かった。検査やら何やらで疲れているのが事実であることと明日の仕事を考えると、家族の団らんよりも休息を優先させたい。私はこれからこの症状をリーマン病と呼ぼうと思う。そしてその病は末期症状だ。

「ああ、そうするよ」

「パパ、おやすみなさい」

「また今度野球のこと話そうな!」

 言葉とは裏腹に、一体この先の人生どうなっていくのだろうという不安が広がっていった。


 シングルサイズのベッドが二つ並ぶ寝室は、ベッドの他には妻愛用の化粧台と、卓上ランプが乗った木製キャビネットだけというシンプルな部屋だ。衣類などは全てクローゼットに収められている。

 本当に自分の脳は病を抱えているのだろうか。頭の先まで布団を覆い考える。

 誤診というのは考えられないだろうか。今一つ実感が沸かない理由は、これまでと同様に頭がきちんと機能しているからだ。

 過去にテレビなどから得た程度の知識だが、物忘れや性格が変わるといった症状が出るという。しかし今の自分にそのような症状はない。医師曰く、私の場合はあの夢か現実か分からくなるといった症状や、ここ数日の睡眠不足、不安感などが初期症状だという。さらにMRI検査の結果、若干の脳萎縮が見られたというおまけもついてきた。紹介を受けた神経内科でもう一度検査を受けてみようと思う。病気を認めるのはそれからでも遅くはないだろう。

 しかしもし仮に紹介を受けた病院においても同じような結果だとした時、家族や職場にどのように告白をすればいいのだろうか。仕事量を減らした方が良いと言ったあの医師の台詞は、恐らく過度なストレスが脳によくないということなのだと思う。しかしそんなことが可能だろうか。あの嫌味な上司に相談したところで業務の配慮など得られないはずだ。まずは江藤に相談してみよう。彼ならば今の私の立場を理解してくれるに違いない。

 では家族にはどのように伝えよう。俊介はさておき、問題は妻だ。妻の立場になって考えてみる。

(あのさ、この前の検査結果なんだけど)

(なによ?まさかどこか悪いんじゃないでしょうね)

(実はそうなんだ。若年性アルツハイマーの診断を受けた)

(……)

(これから迷惑かけることになると思う)

……………………………。

 駄目だ。今年で結婚生活十年を迎えるというのに、それ以上、妻がどのように反応するのかまるで想像がつかない。では仮に、私に介護が必要になった場合はどうだろうか。家族の体力的、精神的な負担は勿論、一家の大黒柱を失った家族は、経済的な部分の不安を抱えることになるのではないだろうか。マンションのローンだってあと十数年残っている。それならば。

(若年性アルツハイマーっていう診断を受けたんだ)

(……。うそ)

(これは本当のことなんだ。けれど心配はいらない。症状は軽い、これからも仕事を続けていけるさ)

……………………………。

 いや、これも駄目だ。これまで通り仕事を続けられる保証などないのだ。それならばどうすれば……。

『くそっ!』

 声を殺し叫んだ。

 寝室のドアが開かれる気配を感じた時、無意識に布団を握る手に力が入っていたことに気がついた。もうあれこれ考えるのはよそう。このままやり過ごして眠りにつくのだ。

 隣でシーツが擦れる音がする。妻はいつも睡眠を誘うために読書をする。推理小説が好きらしく、あの登場人物が怪しいやら、でもそれだとありきたり過ぎるだの、夫の私に犯人探しの助言を求めてくることも多い。妻にとっては夫婦のコミュニケーションのつもりなのだろう。しかし話の要領を掴んでいない私は、「うーん」や「誰だろうね」や「分からないよ」などとしか返せないのだ。私はシャーロックでもなければ古畑でもない。

(あなた、それ古すぎるわよ)

(じゃあ、コナンかガリレオか)

(よく知ってるじゃない!)

(メディアに疎いようではやっていけないんだよ)

(なに格好つけてるのよ)

……。

「あなた、起きてる?」

 突然の出来事に体は正直に反応する。このままやり過ごすのは得策ではなさそうである。

「ああ」

 布団から頭を出した。まるで亀のように。

「起こしちゃった?」

 眠ってはいなかったと正直に申し出るか、横風な態度をとろうか。

「いや、大丈夫」

 中間あたりを選択した。

「……ちょっと話しておきたいことがあるの」

 この状況を説明するとすれば、木製キャビネット上のオレンジ色に光る卓上ランプを亀二匹でサンドイッチしているとでも言えばいいだろう。

「どうかしたのかい?」

 子供に語り掛けるかのように優しく聞いた。

「あのね……。俊介がお兄ちゃんになるの」

 俊介がお兄ちゃん……。俊介がお兄ちゃん?

 慌てて体を起こし、妻に目を向ける。

「妊娠してるのか?」

 妻も体を起こす。

「はい」

 そう言い、妻はコクリと顔を前へ傾けた。

「三か月。実は少しつわりもあるの」

 なんてことだ。妻は実に間が悪い。今回だけは本当にそう言える。いや。考えてみれば妻が妊娠に至ったのは私のせいでもある。しかし何故今なのだ。神様に直接聞いてみたい。

「男の子?女の子?」

 冷静になどなってはいないが、気になったため聞いてみる。

「それはあと一か月くらい先に分かるかな」

 次の言葉は見当たらない。というより探す気力も出ない。もう何も考える気になれない。一人になりたい……。

 再び布団を被った。

「あなた?」

 布団越しからくぐもった妻の声が聞こえてくる。

「あなた?泣いてるの?」

………………………。

………………………。

「ちょっとあなた、聞いてるの?」

………………………。

………………………。

 聞いてはいるが、泣いてはいない。私の涙腺の防波堤には結構な高さがあるのだ。妻の前などで泣いてたまるものか。

「もう何なのよ!」

 布団の擦れ合う音が、妻が眠る体制に入ったことを知らせてくれる。

………………………。

………………………。

 覚悟を決めた。深めの深呼吸をし、布団から顔だけをゆっくり出した。

「実はこっちも報告があるんだ」

 天井を見据えたままなのは、感情を込めずに妻に伝えたかったからだ。そうでなければ泣いてしまう自信がある。

 一体今、何時頃なのだろうか。時間の感覚はまるでない。この静けさからすると俊介は既に一人部屋で眠りについているのだろう。ちなみに妻からの返事はない。だんまりを決め込んでいるのだろうか。それならそれでいい。

「検査結果のことなんだけど……」

 覚悟を決めたはずなのに、次の言葉を発せば自分がその病を認めたことになるのだと気づき、一瞬躊躇してしまった。しかしもう後戻りはできない、自分にそう言い聞かせた。

「若年性アルツハイマー型認知症っていう診断を受けた」

「今はほとんど症状が出ていないが、これから徐々に生活に支障が出てくるかもしれない。お前たちには迷惑かけないようにしたい。けれど僕も診断を受けたばかりで正直戸惑っている。こんな時期に本当にすまない」

 一気に言った。悩みというのは、人に話すだけで半分は解決するものだと誰かが言っていた。その通りまでとはいかないが、ほんの少しだけ気持ちに余白が生まれたような気がする。

………………………。

………………………。

 妻は考えているのだろう。アルツハイマーという病気、それを伴った人間の行く末、今後の生活、生まれてくる我が子……。考えたら切りがない。考えても枝葉のように延々とあっちが咲き、こっちが咲きの連続で、伐採されるまでその開花が止まることはないだろう。伐採とはつまり逡巡する思考を停止させることだ。妻が伐採するまでの間、私は透明人間にでもなる。

………………………。

………………………。

「あなた……」

 伐採されたのであろうか。

「うん」

……。

「それって本当のこと?」

……。

「うん」

……。

「冗談じゃないわよね?」

……。

「うん」

……。

「四月一日はもう過ぎたわよ」

…………。

「うん」

………………………。

………………………。

 再び開花が始まったのだろうか。しかし私は待つことしかできない。待つことが今妻にできる最大の報いなのだ。私は透明人間になる。

………………………。

………………………。

「そっちに行ってもいい?」

……。

「うん」

 窓際が妻のベッドだ。マンション購入当初は私が窓際だったが、夜の遅い私にとっては太陽光が良好な睡眠の妨げになることもあり、交代した。雇用の多様化が進んだ結果、朝日で目を覚ますという健康法はもう古い話となった。

 妻の顔を目線だけで確認しようとしたがそれを止める。理由はない。その方が良いと思ったからだ。

 ステンドグラスに透かされた淡いオレンジ色が、頭上の壁際を揺らしながら照らす。

 妻がゆっくりと私のベッドに腰を下ろし、布団の上部を半分ほど折り曲げる。右足、左足を入れ、両手で布団を手に取り、背中を下ろす。その動作は、ぜんまいを回して動くからくり人形を連想させた。

 妻の頭が、顔が、髪が、額が、こめかみが、息が、私の左肩にそっと触れる。

 ベッドマットのスプリングが小刻みに揺れる。

 私の左腕を掴む妻の両手が、遠慮がちに力を入れる。

 その両手に右手を優しく添える。

 母の手を感じた。

 妻で良かった。ふと、そんなことを思った。

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