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金木犀  作者:
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 真新しいジャケットを身に纏い、新聞紙を縦長四分の一サイズに折り畳み、冤罪に留意しながら満員の都営地下鉄に揺られて会社に辿り着く。会社勤めの妻子ある男性にとって女性専用車両というのは、有り難くもあり迷惑でもあった。

 サラリーマンという生き物は不思議だ。毎日夜遅くまで働いて、ビールではないビールでその日の疲れやストレスを解消させ、憂鬱な気持ちで翌日の仕事を想像しながらシャワーを浴びて眠りにつく、その連続だ。生きるために働いていたのが、いつの間にか働くために生きている。

 そんなことを考えながらの残業は当然捗るはずもなかった。いつものように残務に追われ一人仕事をしていると、突如蛍光灯が不規則に点滅し始めた。

 そして暗闇が私を襲った。

 一体何が起きたのだ。ここは焦ってはいけない。

 携帯電話だ!

 ジャケット右のポケットから携帯電話を取り出し、待ち受け画面の明かりを頼りに周囲を照らす。

 何てことない。いつもと変わらない風景だ。

 しかし鼓動の速度は徐々に加速していく。

 もう今日は自宅に帰ろう。

 待ち受け画面の明かりを進行方向に向けた。

 出入り口付近に近づき電気スイッチを照らすと、自分のデスク上部の蛍光灯を省いて全てのスイッチはOFFの方向を向いている。

 全てのスイッチをONにするのだ。

(何事も起こりませんように……)

 小刻みに揺れる右手を使い、祈る気持ちでスイッチに手をかけた―。


「あなた」

 妻の声で目を覚ました。目覚ましに目をやると午前二時を告げていた。

「あなた大丈夫?」

 背中や脇が汗ばんでいる。あれは夢だったのか。

「ああ。最近仕事が忙しいからな」

「そうね。でもあまり無理をしすぎないようにね」

「ああ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 そうは言ったものの、先ほどまでの興奮のせいかなかなか寝付くことができなかった。

 眠れたのか眠れていないのか分からないまま朝を迎えた。


 職場に着くと、いつもと何ら変わりない風景にホッとした。

 課長の小宮が唯一フロアにいる。苦手にしている上司の一人だ。生理的に合わないという表現はこの先の未来もきっと現代言葉として使用されていくのだろう。

 適当に挨拶を済ませ、いつものようにデスクに着いたその時違和感が生じた。

 家族写真が見当たらない―。

 仕事が忙しくなかなか子供と話す機会を設けることができないため、写真立てに入れ、せめてもの思いで飾ってあるのだ。そのようにしている社員も少なくない。

 しかしどういうことだ。デスク周辺に目をやるが見当たらない。引き出しを探ってみるも無駄に終わった。

 誰かの嫌がらせなのか。いや、それならとっくの昔に何かしらの被害に合っているはずだ。昨日まではどうだったであろうか。

 あの夢が思い出される。

「……佐藤」

 小宮だ。

「はい。どうかしましたか」

「どうかしましたじゃねえだろ。お前さっきから様子がおかしいぞ」

「すみません、ちょっと寝不足でして」

「朝一からそれじゃ困るだろうが」

 それはその通りであるが、他に言い方はないのだろうか。サービス残業の多さを考えればそんな言い方はないと思うのだが。

「すみません、顔洗ってきます」

 そう告げて洗面所に向かった。後方の視線が痛い。

 しかしどういうことなのだろうか。なぜ写真が見当たらないのか。いやもっと言えばデスクに着いた時の違和感はそれだけなのだろうか。

 鏡に映る自分の顔を確かめる。

 自分が自分でないような感覚と言えばいいのだろうか。それとも夢の中にいるとでも言えばいいのだろうか。

 課長の言った通りだ。今日の自分はどうかしている。

 蛇口をひねり顔を洗った。春を迎えたばかりのこの時期の水道水は、鋭利な水滴が肌に刺さるかのような感覚があったが、今の自分にはこのくらいの刺激があった方が良いようにも思えた。


 昼休憩を告げるチャイムが社内全体に響き渡る。

 仕事は思った通り捗っていない。このままではまた休日出勤しなければならない。そう覚悟した時、同僚の江藤がデスクに近づいてきた。

「よう、食堂行くか」

 江藤は、同期でこそあるが年齢的には二つ上の先輩だ。何かと親身にしてくれて、過去には家族ぐるみで食事をしたこともあったが、奥さんとの死別以降、家族同士の交流は途絶えていた。

「それはお前疲れているんじゃないか」

 鮭の骨を箸で取り省きながら目の前の江藤が言った。

 今日のランチはカツカレーか、もしくは鮭の塩焼きだ。カツカレーにはサラダ、鮭の塩焼きにはイカリングが副菜として添えられている。

「そうなんだけどさ。なんかいつもと違うんだよ」

「だから、疲れているからそう感じるんだって。それより最近奥さんはどうだ、元気か?」

 最近はなかなか妻とゆっくり会話ができていない。それでもその通りに答えることなどできない。

「ああ、相変わらず口うるさいよ」

「はは。それがお前の奥さんのいいところだろ」

 江藤との会話で少し心が和んだような気がする。残ったカレーを急いで頬張った。


 午前中の仕事の捗り具合が響いた。時計が日を跨ごうとしている。他に残っている社員はもういない。

 携帯をジャケットから取り出し画面を確かめると、メールの着信を告げていた。妻からだった。

【遅くまでお疲れ様です。あまり無理をせず、たまには早く帰って体を休めてください(笑顔)】

 こうやって仕事の遅い日は体を気遣ったメールが送られてくる。返信しようとボタンに親指をかけた瞬間、不穏な空気が流れた。

 胸がざわつく。一体何だ―。

 低い電子音のような耳に残る音が聞こえた瞬間、上部の蛍光灯が点滅し始めた。

 一体何なのだ。出入り口付近のスイッチに目をやる。

 しかし不規則に点いては消え点いては消えの連続で確認ができない。そして一瞬のうちに暗闇が私を襲った。

 どういうことだ。蛍光灯の寿命なのだろうか。それとも昨日見た夢が現実に起きているのだろうか。

 もう訳が分からない。

「くそっ!」

 携帯を折り畳む手に力が入る。

 今日はもうお終いだ。そう決めてノートパソコンを閉じると、先ほど以上の暗闇と静けさが広がる。ほぼ暗闇だとはいえ二十年もいる職場だ、転倒してひっくり返ることもないだろう。

 デスクの下にあるビジネスバッグを取り出すため、座ったままバッグを手であさった。

 何かが手に当たる。

 その感触からあの写真立てだと分かった。

 こんなところにあったのか。それにしても何故気がつかなかったのだろうか。しかしそのことよりも早くこの場から抜け出したい気持ちの方が勝っていた。

 写真立てをデスクに戻し、自分の感覚を頼りに暗闇を進んだ。


「あなた」

 妻の声で目が覚めた。目覚まし時計に目をやると午前三時を過ぎたところだった。

「あなた大丈夫?」

 こんな場面が前にもあった。一体自分はどうなっているのだろうか。

「ああ、大丈夫」

「最近、本当におかしいわよ」

 そんなことは自分が一番分かっている。が、そんなことは妻には言えない。

「ああ、仕事が溜まっててな。たまには早く帰ってくるか」

「そうした方が体のためよ」

 目覚めたばかりの頼りない頭で、仕事の残量と帰宅可能な時刻を瞬時に計算した。

「俊介が寝る前くらいには帰るようにするよ」

「じゃあ、待ってるわね。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 再び眠りにつこうとするも、思考がそれを邪魔する。蛍光灯と写真立て……。


「パパ、行ってらっしゃーい」

 小学二年生になった息子と妻が見送ってくれる。絵に描いたような円満な家庭だ。

「いってきます」

 そう言っていつものルーティンが開始された。

 会社に着くと、いつものように上司の小宮だけがフロアにいた。

「おはようございます」

 事務的に挨拶を済ませデスクへ向かった。

 まず一番に、気になっていた場所へ目を向ける。写真立てはいつもの場所に置かれていた。

 やはり昨日の出来事は現実なのだ。やる気がみなぎった。

 この会社は印刷会社である。印刷業界というのは、単に印刷のみを業務とするのではなく、顧客の要望に合わせて、取材から市場調査、それをもとにコンテンツの制作、印刷から発送までを一体的に手がけるのだ。私は各部署の中でもっとも華のない編集部に所属していた。編集部は取材部や社会部から上がってきた材料を元に特殊なソフトを用いて印刷物の原案を作成するのが主な仕事である。

「佐藤、ちょっと」

 小宮から呼ばれた。

 上司の表情から自動販売機があるというだけでオアシスと呼ばれるその場所に来るようにという意図が感じ取れた。

 こういう時は業務の進捗具合の確認が主ではあるが、部内の人間関係やプライベートなことに及ぶこともある。しかし今日はオアシスへ呼ばれる理由が分からない。嫌な予感がする。

 いつものようにブラックコーヒーを手渡され、小宮がプルタブを引くのを待って、自分もプルタブを引いた。

 一口飲んだところで話が切り出された。

「仕事はどうだ」

 嫌な予感が的中しそうである。

「鈴木企画のところは今日中に決裁を回せると思います」

「そうか……」

 嫌な間だ。遠回しをする方、される方の心理的負担はどれほど差があるのだろうか。この上司はそんなことお構いなしなのだろうが。

「実は柴田興業からの急な依頼でな。新製品のパンフレットを制作してほしいとのことなんだが、今週中に何とかならないか」

 おいおい。それはいくら何でも急過ぎるだろ。

「ちょっと待ってください。それは取材部と社会部に話は通っているんですか?」

「いやそれが今回な、急な依頼だってことで全てうちで行うことになったんだ」

 そんな無茶な。しかし会社というのはこんなものである。イレギュラーなことは当然起こる。それがよりによって今日だとは。

「分かりました、柴田のところにはすぐにでも連絡入れます」

「頼んだぞ」


 外の景色が退社時刻に迫ったことを告げている。その頃になると派遣社員がデスクの上を片付け始めたり、ブラインドカーテンが引かれるなどの恒例儀式が開始される。

 柴田興業へは明日朝一番で出向くことになっていたが、通常業務をある程度消化して余白を作っておかなければ、明日は地獄を見ることになる。遅めの残業を覚悟した。

 早く帰宅すると妻に約束をしたため、それを裏切ることになってしまった。申し訳のない気持ちでジャケットから携帯を抜いた。

 何気なく右手の親指は昨日の受信メールに向かっていった。昨夜の妻の気遣いを感じたかったからだ。

「……」

 メールが見当たらない。

 間違えて削除してしまったのだろうか。いやそんなはずなどない。いくらボタンを押し間違えたとしても削除するまでにはいくつかの工程を辿る必要がある。

 それならばどういうことなのだろうか。昨夜の出来事は現実ではなかったとでもいうのだろうか。

 焦るな、落ち着け、思い出せ……。

 急にこめかみあたりに強い衝撃が走った瞬間、視界が百八十度ひっくり返るかというほど、そこにあるべき景色が無重力空間にいるかのように左右に揺れ始めた。

 ダメだ……。

 意識が遠のいていく……。


 気がつくと白い天井と蛍光灯がぼんやり見えた。天井の薄く茶色く膨らんだ染みが気になる。その染みを拭おうと手を伸ばすがその手が届くことはなかった。

 一体ここはどこなのだろうか。スチール製のキャビネットや備え付けのブラウン管テレビがあることからここが病院だということは理解できる。

 いつここに運びこまれたのだろうか。

 記憶を探ろうとすると頭に痛みが走る。

 薄いピンクのカーテンから見える外の景色と周囲の静けさが、朝の早い時間だということを知らせてくれる。

 重たい身体を起こすと、キャビネットの上に妻の字で書かれた置手紙がしてあった。

『昼ごろ伺います。それまで安静にしていなさいよ! 紀子』

 折り畳まれた三つの跡になぞって便箋を折った。

 そして妻の言う通り、もうしばらく眠ることを選択した。


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