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嘘つきリリィと君の嘘

 梅雨の晴れ間で、久しぶりにさっぱりとした気分のはずだった。日の伸びた夕方。暖かいオレンジに染まる街並みが綺麗で、少し遠回りをして帰ろうと思っただけだった。行きつけの喫茶店が定休日だってことはすっかり忘れていたけれど、だからってこんな風に偶然鉢合わせるなんて思わなかった。

 住宅街の片隅。小柄なおばあさんと長身の青年というちぐはぐな人影に気付いて、慌てて踵を返したけれど、遅かった。穏やかな笑顔のおばあさんから安っぽいビニール傘を受け取った修がタイミング悪く顔を上げて、あたしを見つける。くたびれたスーツ姿のあたしを。

「あれ、リリィ?」

 修はあたしの格好を見て微かに首を傾げる。

「ひょっとして仕事帰り、かな?」

 プロの絵描きって、嘘だったのか。そう言われた気がして、途端にいたたまれなくなる。けれど、慌てて走り出した瞬間わずかな段差に躓いて、無様に転んでしまった。修が驚いた顔で駆け寄ってくる。

「おい、大丈夫?」

 大きな手が差し出されて、あたしを立たせてくれる。咄嗟に地面についた手が妙に痛いと思ったら、擦り傷ができていた。格好悪くて、泣きそう。

「あー、痛いよな」

 顔を歪めたあたしを見て、何かを勘違いした修が苦笑を浮かべる。その手が今度はあたしの頭をやさしく撫でた。修は短く来て、と言うと、やっと立ち上がったあたしの手を引いて歩き出した。

 通い慣れた喫茶店は閉店の看板が立てられてはいたけれど、閉められたカーテンの隙間から暖かい明りが漏れていた。修はためらいもなく鍵のかかっていない扉を開ける。

「じいちゃん、ちょっと借りるよ」

 修に連れられて店に入ると、ワイシャツにベスト、手にはモップという出で立ちのマスターが振り向いた。ピカピカに磨かれた床。きれいに洗われたガラスの花瓶。テーブルクロスは洗濯しているのか、かかっていなかった。

「おや、リリィさん」

「今日は俺の客。救急箱、借りるよ」

 修はあたしに手を洗ってくるようにと告げると、カウンターの奥から別の部屋へ消えていく。

「何か淹れるかい?」

 マスターの声に、遠くから修の声が答える。俺がやるからいいよ、と。マスターは柔らかく笑うと、あたしに向かって片目を瞑って見せた。

「じゃあ、退散しておこう」

 マスターは手早くモップを片付け、奥へ消えてしまった。取り残されたあたしはもう逃げる気にもなれなくて、仕方なく化粧室を借りて手を洗った。修はいつものあたしの席で手早く傷の手当をすると、座っててと言い残してカウンターに立つ。

 小さな鳴き声が耳に届いて、修と入れ替わるようにこの間の子猫があたしの足元にすり寄ってくる。理由もなく、ため息が漏れた。しばらくすると辺りに甘い香りが漂って、修がトレーを片手に戻ってくる。

 ほら、と声がして子猫の前にはホットミルクが、情けない顔のあたしの前にはアイスココアとベイクドチーズケーキが置かれた。修があたしの向かいに腰を下ろす。

「コーヒーよりココアが好きだったよね?」

 ああ、ばれていたんだ。もう一度ため息をついて、あたしは出されたグラスに手を伸ばす。ミルクたっぷりのアイスココアは、昔からあたしの大好きな飲み物だった。

 覚えていたんだ。そう思うと、少し嬉しかった。修は何も言わずに、あたしが話し出すのを待っている。

「…聞かないの?」

「何を?」

 ぽつりと言うと、修は首を傾げる。いろいろ、とあたしは答える。

「嘘、ついてたこと」

「嘘って?」

 修は柔らかい笑顔のまま、あたしの言葉を待っている。

「絵描きって、嘘だから。美大なんて出てないし、プロなんてとんでもないし」

「うん」

「あと、この店で初めに会ったときも、知らないふりした。ほんとは気付いてた。修だって」

「そっか」

「あとね。あと……」

 言葉が詰まる。高校生だったころの自分のことを、思い出して。一生懸命しまい込んだ嘘が、どういう結末になったのか、あたしは知らない。だって、見送りにも行けなかった。

「ナツのことも」

「ナツ?」

 修が不思議そうに首を傾げる。それから何かに思い至って、ああ、と返事をした。

「ナツが修のこと好きって知っちゃったから、ずっと避けてた」

 修はもう一度、ああ、と頷いた。

「…知ってたのか。懐かしいな。ナツとは連絡取ってるの?」

 修の笑いが苦笑に近いものになる。あたしは黙って首を振った。親友だと思っていたあの子と話もしなくなって、もうずいぶん経つ。

「そっか。俺も」

 修は、そう言って頷いた。沈黙が流れて、飾り時計の振子が揺れる音だけが辺りに響く。

 口を開いたのは、修だった。

「俺もさ、一個、嘘ついてたんだけど。知りたい?」

「……何?」

 問い返すと修は歯切れの悪い調子でうーん、と呟き、いたずらっぽく笑った。

「うん。やっぱ、内緒」

 肩すかしをくらってぽかんと口を開けるあたしに、修は楽しそうに笑って皿の上のチーズケーキをすすめた。あたしは戸惑いながらフォークを手に取る。

 しっとりとしたチーズケーキは、どこか懐かしい味がした。

 帰り際。店の外まで見送りに出た修は、送って行こうか、とあたしに手を差し出した。かわいくないあたしは、仏頂面で首を振る。修は困ったように、短く笑った。

「また来いよ、百合」

 修が、あたしの名前を呼んだ。リリィなんて嘘っぱちの名前じゃなくて、あたしの本当の名前を。

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