思い出紫陽花、夏の空
降り出した雨から逃げるように店に入ると、マスターが穏やかな声でいらっしゃい、と言った。
店の中は柔らかい照明に照らされていて、纏わり付くような暑さもなかった。他に一人も客のいない静かな店内に、ピアノの音色が流れている。ここに来ると、なぜだか落ち着く。梅雨時の鬱陶しい空気も、濡れてしまったスカートの裾も、扉の外の雨音さえも、まあ悪くないか、と思えてしまうから不思議だ。
いつもの席に落ち着くと、マスターが注文を聞きにくる。そういえば、今日はあのふやけた笑顔がない。
「あいつ、いないの?」
少しだけ気になってそう聞くとマスターは目元に刻まれた笑い皺を深くして、買出しに行っているよ、と答えた。
「会いたかったかい?」
いたずらっぽい言い方をするマスターに、あたしはせいせいした、という表情を浮かべてみせる。
「いいえ、ちっとも」
窓の風景は、雨粒に滲んでいる。日ごとに緑を深めていく街路樹。色とりどりの傘。重なる雲と、銀色の雫。
ああ、こんな絵を描いていたことがあった。あたしじゃなくて、彼が。
窓際の木製棚の上に行儀悪く腰掛けて。寝癖のついた髪。よれたワイシャツ。水彩絵の具の匂いが微かに漂っていた。
窓の外に向けられた目が、真剣だった。普段はぼーっとしてばかりのくせに。
キャンバスに描かれた風景は、まるで水の中から見た景色のようだった。窓ガラスに付く水滴と滲んだ緑色。一輪一輪わずかに色を変えて描かれる紫陽花。灰色を重ねて作る空。
静かだった。微かな雨音。筆の音。時計の針が進む音。
息を殺して、その絵が出来上がっていくのを見ていたっけ。視線に気づいた彼は、完成したらやるよ、なんて勘違いした言葉を口にした。あの絵は、今でも引き出しの奥にしまってあるんだ。
あたしはため息をつくと、スケッチブックと色鉛筆を取り出した。重たい空は描く気になれなくて、晴れた空を描いてみる。
想像で描いた夏空はなかなかの出来栄えだった。満足してカフェオレに手を伸ばすあたしの前に、マスターが白いケーキ皿を置いた。乗っていたのはミルフィーユ。この店では見慣れない菓子に首を傾げると、マスターはサービスだよ、と言って笑った。
「修が新しいメニューを用意してね。味の感想を聞かせてほしいのに、リリィさんがなかなか注文してくれないと嘆いていたよ」
そういえば、ずいぶん前に注文をせがまれたな。
「だ、だってメニューなんていつも見ないから……」
すっかり忘れていたことに気づいて慌てて言い訳をすると、マスターは声を上げて笑った。
キャラメリゼパイと甘酸っぱいイチゴのミルフィーユは女の子の好きそうな味で、悔しいけれど文句の付けどころがなかった。すごく、あたし好み。
美味しかった、なんて言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。とてもそんな風に褒め言葉を口にはできないけれど。それどころか、感想を切り出すタイミングも掴めないかもしれない。いっそ、何も言わないでおくのがいいかも…。
そんなことを考えて一口だけ食べたミルフィーユとにらめっこをしていると、いきなり店の入り口が勢いよく開いた。ドアベルが元気な音を奏でる。
「やー、濡れた濡れた。あ、リリィ。雨なのに来てくれたんだ。いらっしゃい」
騒がしい声と一緒に現れた修は全身びしょ濡れで、マスターが慌てて奥からバスタオルを手に駆け寄った。
傘を持って行かなかったのかと尋ねるマスターに、修はへらへらと笑う。
「いや、近所のばあちゃんが傘なくて困ってたから…」
そう言って苦笑した修の言葉に賛同するように、にー、という声が聞こえた。驚いて目を向けたあたしは、修のおなかの辺りがもぞもぞと動いているのに気が付いた。
「あ、忘れてた」
目を見張るマスターとあたしの前で、修が前を閉めて着込んでいたパーカーのジッパーを下した。パーカーの下から、修と同じくらいびしょ濡れの子猫が手品のように現れる。
「何よ、その汚いネコ」
もとは白と思われる毛並は泥で汚れ、修の来ているカッターシャツまで茶色く染めていた。修はというと、またもやへらへらと気の抜けた笑顔を浮かべている。
「拾っちゃって。いいよね、オーナー」
飼っても、という言葉の抜けたセリフに、マスターはしばらく考え込んだ後で、やれやれと言いたげに頷いた。
「ダメだと言っても、お前は聞かないからなあ。ちゃんと綺麗に洗ってあげなさい」
それから、衛生面と猫の嫌いなお客がいるときにはちゃんと配慮をして……。マスターの話は続いていたが、修は小言などそっちのけで高い高いをするように子猫を抱え上げ、看板猫だ、とはしゃいでいる。
「名前つけてよ、リリィ」
ずい、と目の前に突き出された子猫が小さく鳴く。白い背中に薄茶のぶち模様。ちゃんと泥を落とせばけっこうかわいい顔をしているかも。
「…シャルロット」
適当に答えて、おやつを口に運ぶ。修がようやくあたしの食べているものに気付いてあっ、と声を上げる。その腕の中から身を乗り出して、子猫が食べ物を欲しがった。あたしはミルフィーユの最後のかけらを自分の口に放り込んだ。
「だめよ、こんな人間の食べ物。今度、何か持ってきてあげるから」
言葉が伝わらず、子猫が悲しそうに鳴く。それを抱き上げている修は、ソワソワした顔で感想を待っている。やっぱり、子犬のようだ。
「まあ、まずくはないわね」
かなりつっけんどんなあたしの言葉に、それでも修は嬉しそうに笑った。