イライラ気分とチューリップ
真っ白なレースのカーテンが、窓から吹き込んだ風に揺れる。少しずつ強さを増していく日差しがテーブルに踊った。涼しげな青い花瓶に活けられているのは白いチューリップで、花びらの先がほんのりとピンクで彩られているのが可愛らしい。その隣にはほろ苦いココアクッキーの乗った皿と、赤いマグカップに注がれたカフェモカ。
飾り時計の針が進んで、低い鐘の音が三時を告げた。カウンターの向こうでは、マスターがゆっくりとした手つきでグラスを磨いている。よく晴れた、穏やかなはずの午後なのだけれど。
あたしは優雅な午後に似合わないほど大きなため息をつくと、半ば叩きつけるように鉛筆をテーブルに置いた。パシッ、と小気味良い音が耳に届いたけれど、気分はさっきから一向に晴れない。
カウンター席の端っこでは年齢のバラバラな青年が三人、昼間からジョッキでビールを呷っている。さっきからあたしがイライラしている原因だ。時折上がる遠慮のない笑い声に、他の客たちも今日は長居をせずに逃げるように出て行く。
今日は帰ろうか。そう思ったけれど、なんだか何かに負けたような感じがして気にくわない。あたしは可愛らしい星の形のクッキーをつまみ上げて口に運ぶ。ほのかな苦味がイライラを煽っている気分になった。最悪だ。
「ちょっと。集中できないわ」
ガラスの水差しを持った修がテーブルの近くを通ったのを見つけて、あたしは八つ当たりのような文句を言った。
「昼間っからお酒を出すなんて、非常識じゃないの」
怒りを篭めたあたしの言葉に、修はいつものへらへらとした笑顔を浮かべる。ため息が出そうなくらいへにゃへにゃとした笑顔だ。あたしの中で、とげとげした感情がさらに膨らんでいく。
「あー、ごめん。今日だけなんだ。大目に見てくれないか?」
修の返答に、あたしは思いっきり顔をしかめて見せた。ほんの少しでいいから、イライラの欠片くらいは目の前の男に伝わってくれることを期待して。修はあたしの手元を覗きこんで、納得したように頷いた。
「イライラしてるでしょ、リリィ。線が荒いよ」
スケッチブックの中のチューリップは鋭い線でざかざかと描かれて、バラの棘みたいに今にも刺さってしまいそうだ。
「リリィだって、毎週コーヒーと軽食だけで随分粘るだろ?」
言葉だけを聞けば厭味でしかないセリフを、修は柔らかい笑顔で口にする。あたしは真っ当な意見に何も言えなくなって、無言でトートバッグに手を伸ばした。珍しく慌てた修がそれを止める。
「いや、迷惑なんかじゃないから帰らなくていいんだけど」
じゃあ、どういうつもりなのよ。
視線で訴えかけると、修は苦笑を浮かべてテーブルの上のグラスに水を注いだ。
「あの人たちさ、この辺で活動してる声楽サークルのメンバーなんだ」
修はカウンターで騒ぐ三人組に目を向けて言う。
「珍しいだろ。男三人の合唱団だって。で、昨日コンクールがあったらしくてさ。初めて入賞したらしい」
祝勝会なんだ、という修はひどく優しい顔をしている。イライラしているあたしが恥ずかしくなってしまうくらいに。
「真ん中にいる人、転勤が決まってるんだ。三人でやれる、最後のコンクールだったんだってさ」
何よ。どこにだってある話じゃない。
そう思いながら向けた視線の先で、人の良さそうな男が笑っている。中肉中背、ただ短くしただけの髪、カッターシャツとくたびれたジャケット。冴えないサラリーマンという表現がしっくりくるその人は、右隣に座るまだ若い茶髪の男にばしばしと背中を叩かれ、左隣の長身の男からは髪を掻き回されている。楽しそうな目元が少し濡れている。
あたしはばつが悪くなって、そう、とだけ言って三人組から顔を逸らす。
『……東京へ行くんだ。そっちは?』
もう何年も前に聞いた言葉が、不意に耳元に甦る。
春を前にして、暖かい日差しと冷たい風が季節をごちゃ混ぜにしていた。目の前に立っていた君は、何も言わずに俯くあたしに困ったように笑いかけた。何で怒ってるの、と。
違うよ。怒ってたんじゃない。ただ、うまくいかなかっただけ。ほんの少しうまくいかなかっただけ。
あの日の君はため息をついて、小さな町を出て行く日取りをあたしに伝えた。
あのね。行かなかったんじゃないんだ。あたしの決心がついたのが、電車の発車時刻を過ぎてしまっただけ。
思い出は、修の声に掻き消された。
「けど、確かに騒ぎすぎかもな。おーい、勇太郎さん、もうちょっとトーン落としてよ」
修が、あたしの座るテーブルを離れていく。三人が振り向き、背の高い男が申し訳なさそうに眉尻を下げた。悪いね、という声が届いたけれど、あたしは気付かない振りをして鉛筆を握り直した。
あの子何してんの、という声に、修が何かを答えている。あたしはせっせと鉛筆を動かして、荒い線を直していく。遠くで修と客たちが笑いあう声が聞こえたけれど、もう、気にならなかった。
「花が優しくなってる」
夕方になってざわめきが消えた店内。鉛筆で真っ黒になってしまった手を洗って戻ると、修がスケッチブックを覗きこんでいた。
「…勝手に見ないでよ」
最後は声を上げて泣き出すほど大騒ぎをした三人組は、少し前に帰っていった。他人の事情を推し量れるほど優しくないあたしは、まだ少し気まずくて、不機嫌なふりで修から目を逸らす。
「また、もらってもいい?」
スケッチブックを指さして、悪びれることもなく修は問いかけてくる。勝手にしてよ、と素っ気なく返すと、修は一生懸命描き直した花の絵を丁寧な手つきでスケッチブックから切り離した。
修の足元には、いつの間にか質素なデザインの木製フレームが用意されていた。気がつけば、この間描いた桜の絵も店の壁にかけられていた。
「勇太郎さんがさ、謝ってたよ。邪魔して悪かった、頑張ってな、だって」
修ののんびりとした声が耳に届く。小さなことに怒ってばかりのあたしは、恥ずかしくて、手早く荷物をまとめるとレジへ急いだ。
「来週も待ってるよ」
仏頂面で出て行くあたしを、修の声が追いかけてきた。