桜の花と遠い過去
穏やかな日差しが降り注いでいる。
すっかり暖かくなった土曜日のこと。店のドアを開けたあたしを爽やかな笑顔で迎えた修は、今日はいつもの特等席にあたしを案内した。へらへらとしていて頭の軽そうな印象だけれど、この間のやり取りはしっかりと覚えていたらしい。
あたしはお礼もそこそこにブレンドコーヒーとシフォンケーキを注文する。所在のなくなったメニューをおずおずと差し出して、修は苦笑をあたしに向けた。
「あー、っと。今度、新しいメニューを追加したんだ。よかったらどう……」
「今日はいいわ。気が向いたら見せてもらうから」
あたしは渡されたメニューをそのまま隅に押しのける。態度が悪すぎたかな、なんて心の奥で思いながら。
「そっか。じゃあ、来週来たときは頼んでみてよ」
修は厭味かと思えるくらい屈託のない笑顔を浮かべると、カウンターの奥へ引っ込んだ。ため息混じりに視線を巡らすと、近くのテーブルの空いた皿を下げていたオーナーが、面白そうな顔であたしを見ていた。あたしは咳払いをひとつして呆れ顔を隠すと、スケッチブックを取り出した。
窓の向こうには、小さな公園の風景が広がっている。あちこちに植えられた桜の木はどれも見ごろを迎えていて、淡い色の花びらを惜しげもなく風に振りまいている。ピクニックにでも来たのだろう。家族連れの姿がそこにあった。
なんとなく鉛筆を持って、あたしは仲のよさそうな家族の様子を、真っ白な紙面に写しとっていく。
もっと高く、もっと高く。競うようにブランコを漕ぐ二人の幼い少女。それを見守る父親の広い背中。カラフルなレジャーシートの上でお茶を用意する母親。霞んだ空気の様子。光の温度。桜の花びらを運ぶ風。
『見えてる世界をさ、濃淡だけで表現するんだ。けっこう楽しいだろ?』
心の奥のほうで声が甦る。
それは、遠い遠い思い出。あたしが。あたしと、彼と、彼女が高校生の頃の。
『…難しいよ』
うまくいかないことがあると、すぐに投げ出すのがあたしの悪い癖だった。放り出した鉛筆を、夕暮れ時の光が照らしていたっけ。彼は使い込んで短くなった自分の鉛筆をあたしに握らせて、何がおかしいんだか、楽しそうに笑っていた。
向かい合って座るあたしたちの間には、ガラスの花瓶に活けられた桜の枝が飾られていた。折られた枝がたった数日で呆気なく枯れてしまうだなんて、あの日、あのときにはすこしも思わなかった。
『どうして色を使っちゃいけないのかがわかんない』
『技術の向上のため。色を使わないとこが楽しいんだって』
向かいの席に置かれた彼のスケッチブックを覗き込んで、出来の違いに腹を立てるあたしに、彼は大丈夫だと笑いかける。何が大丈夫なのかも、何がおかしいのかもわからないまま、あたしは何故だか嬉しかった。
『そのうちうまくなるって。描くの、続けてればさ』
あの時ちょうど、壁に取り付けられたスピーカーから掠れたチャイムの音がして、美術室の引き戸が開いたんだ。大きな足音を立てて入ってきた彼女は、あたしと彼に、帰ろうよって、そう言った。
カチャッ。
微かな音がして、意識は放課後の美術室から穏やかな喫茶店へと引き戻される。修がコーヒーカップと、ケーキの乗った皿を置いた音だった。
中腰になった修が、あたしの手元を覗く気配が伝わった。へえ、と微かな、本当に微かな声が届く。あたしは気が付かないふりをして、鉛筆を持つ手を止めもしなかった。修はそれ以上何も言わずに、カウンターへと戻っていった。
あたしはほっと息をついて、置かれたばかりのコーヒーを口に運んだ。温かいブレンドコーヒーは、少し酸味の強い味がした。窓の向こうでは、ブランコに飽きた少女たちが追いかけっこをしている。呆れるほど元気で、うらやましいほど幸せそうな光景。
ドアベルの音が耳に届いて、修が新たに入ってきた客に笑いかける。大学生くらいの若い女の子が二人。彼女たちは案内された席に座るなり、修に何かを話しかけてはきゃいきゃいとはしゃいだ声を上げる。愛想よく二人に何かを言う修の姿が、テーブル越しに見えた。
面白くない。唇を尖らせたところではっとして、あたしは慌てて首を振る。面白くないって、何がよ。
ちょうど、正午を告げる鐘が響いた。気が付けば店の中は昼時の賑やかな空気に包まれている。きっと、スケッチブックいっぱいに桜の花びらを散らせることに疲れたんだわ。
あたしはまだ女子大生の相手を続けている修を無視してマスターを呼び、メニューを開くこともしないままサンドイッチを頼んだ。修が慌てた様子で会話を切り上げ、急ぎ足でカウンターに入っていく。
テーブルの上のスケッチブックを一度鞄にしまい込んで冷め切ったコーヒーを飲み干したころ、修がサンドイッチを運んできた。
「コーヒー、お代わりは?」
修の言葉に頷いて、あたしはついでのように冷たく厭味を口にする。
「ずいぶん楽しそうね」
「え?ああ、ここの仕事のこと?」
修はまるで見当違いな受け取り方をして、あたしの言葉ににこにこと頷く。
「楽しいよ。俺、今まで客商売なんてしたことなかったけどさ。いろんな人と話しすんの、けっこう好きだからさ」
「そう」
ぷい、と横を向くと、カウンターの向こうから楽しそうにこっちを見ていたマスターと目が合った。修はそれじゃ、と言って席を離れていく。あたしは「にやにや」としか表現できないマスターの笑顔から視線を逸らして、サンドイッチをほおばった。淹れたばかりのコーヒーは、やっぱり少し酸味が強い。
客の波はやがて引けて、静かな時間が再び訪れる。デッサンはおやつ時には仕上がった。公園で思う存分遊んだ一家は、ずいぶん前に帰り、窓の外は桜が舞うばかり。一枚一枚丁寧に描いた花びらに達成感を抱いていると、背後から声がかかった。
「すごいな。よく描けてるじゃん。リリィ……さん」
コーヒーのお代わりを持ってきた修は賞賛の言葉を口にして、にこりともしないあたしの視線にたじろいで敬称をつけ加える。
あたしはコーヒーを断るとトートバッグを肩にかけ、席を立った。
「帰るわ」
「えっ。ああ…」
修は素っ気ないあたしの言葉に、慌ててカウンター横のレジに駆け寄る。会計を済ませたところで、修が再び口を開いた。
「あのさ。さっきの絵、もらってもいいかな?」
「……は?」
「飾りたいんだ。ダメ?」
「なっ…。あんなもの飾ったって、何の価値もないわよ」
「価値なんかどうでもいいって。きれいだから飾りたいだけ」
引き下がらない修との静かな言い合いに、店にいた数人の客が視線を向けてくる。思わずため息が出た。あたしは描き上げたばかりのページを破りとって修に押し付けるように渡すと、何も言わないまま店を出た。
「ありがと。リリィ」
春の暖かい風に乗って、修の嬉しそうな声だけが追いかけてきた。