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ふやけた笑顔と福寿草

まずはアクセスいただき、ありがとうございます。


拙いばかりの文章ですが、お楽しみいただければ幸いです。

 夏のことだった。ずいぶん遠い過去のこと。傾き始めた夕日の朱が、整然と並ぶ机の列を照らしていた。

 淡々と進む時計の針と、黒板に残る言葉のかけら。開け放たれた窓の向こうから、蝉の鳴く声が聞こえていた。風に翻るカーテンが何色だったのかは、もう覚えていないんだ。遠くて。おぼろげ。

 ただ、ずっと好きだった、なんて言葉と。それから、君の口元が笑ってたことは、いつまで経っても忘れないんだ。どんなに記憶が遠く霞んでも決して。




 喫茶店、プルメリアはあたしの憩いの場所だった。住宅街の端っこ。緩やかな坂道を登った先の、少し開けたロータリーの脇。日当たりのいい店の窓際でコーヒーを飲みながらスケッチに没頭するのが、あたしの週末ごとの日課だった。

 緑色の屋根と板張りのテラス。いつもぴかぴかに磨かれた大きな窓。ゆったりと座れるように配置されたテーブルには、質素なグラスに活けた花がいつだって飾られて。アンティークの飾り時計と、静かに流れるリチャード・クレイダーマン。

 夜は酒場としても営業している店だけれど、女性が一人でも入りやすい雰囲気のレイアウトに好感を抱いて、数年前から通っている。あたしはいわゆる、常連客のひとりだ。

 だいぶ歳をとったオーナーが一人で守っていたこの店に新しい店員が入ったのは、春先のこと。

 その日、ドアベルの涼しげな音色に振り向いた背の高いその青年は、何が嬉しいのか、ばかみたいなくらいにこやかな表情で出迎えの挨拶を口にした。よく通るテノール。わずかに寝癖の残るオリーブアッシュの髪。丸っこい目と口角の上がった口元。二十代の半ば。たぶん、あたしと変わらない歳だろう。

 自分の鼓動が一つ、耳元で鳴った気がした。

 大きな手が滞りなく動いて、手近な席へあたしを誘う。こちらへどうぞ、なんて言葉つきで。

「座る席くらい自分で決めたいんだけど」

 可愛げのない言葉が自分の口から飛び出す。目の前の青年が、ほんの少しだけたじろいだ。

「窓際がいいの。空いてるんだから、いいでしょう?」

 広く取られた通路を勝手に進んでいくあたしの後ろ姿を、新人店員は困惑気味に見送った。

「おや、リリィさん。いらっしゃい」

 そのやりとりを聞きつけたのか、店の奥から老人が一人、顔を出す。ワインレッドのカフェエプロンをつけた彼は、艶が消えるほど使い込まれた木製のトレーに水の入ったグラスを載せて、一歩一歩地面を確かめるような足取りでゆっくりとあたしの座るテーブルに近付いた。

「こんにちは、マスター」

 あたしは仏頂面のまま挨拶を返す。マスターは優しい笑顔で頷いて、深い緑色の糸で編み上げたコースターの上にグラスを丁寧に置いた。中の氷が揺れて、澄んだ音を立てる。テーブルの上にはマスターが運んできたものより少しだけ小さなグラスがあって、福寿草の花が可愛らしく飾られていた。

「新しい人が入ったのね」

 遠巻きにこちらを窺いながら困ったような笑顔を浮かべる青年を視線で示すと、マスターはもう一度柔らかい笑顔で頷いた。皺だらけの手をおいでおいでと上下に振って手招くと、青年は子犬のように小走りにこちらに寄ってきた。

「僕の孫でね。ここの跡取りだ」

 マスターの紹介に青年は、坂上 シュウです、と名乗りまた笑った。なるほど、この甘ったるい笑顔は遺伝ってわけ。そんなことを思いながら、あたしは小さく会釈を返す。すると青年、修は小首を傾げ、今度は少し不思議そうな顔を浮かべた。

「あの、さ。俺のこと、覚えてない?」

 それは懐かしい昔馴染みにでも向けるような、どこか期待に満ちた言葉使いだった。あたしはいつもの仏頂面を崩すこともなく、視線を青年から逸らした。

「なあに、それ。新手のナンパ?」

 棘のある言い方に修は慌てて首を振った。

「あー、いや。違ったかな。いいんだ、何でもない」

「そう。マスター、いつものをお願いしますね」

 まるでのけ者にでもするようなセリフに、修はそっとマスターに視線をやった。少し意地悪だったかも。そう思って、あたしは可愛くない態度を少しだけ反省する。

「あたし、カプチーノとベリータルトが好きなの。ちゃんと覚えておいてよね」

 すると修はひどく嬉しそうな顔でへらりと笑い、大きな声で覚えておく、と答えた。人の良さそうなふやけた笑顔が何故だか癪に障る。

 あたしはお気に入りのトートバッグに入れてきたスケッチブックを取り出して、わけのわからないイライラを自分の中から追い出そうと奮闘を始めた。鉛筆を握って、花の飾られたグラスを通る光の様子をじっくりと観察する。

 柔らかい線で描き始めたデッサンは、結局完成しなかった。

 カウンターの向こうの会話が鬱陶しかったのだ。

「リリィさんはプロの絵描きでね。有名な美術大学を出て、今は修行中だそうだ。毎週土曜日にああやってあの席で絵の練習をしていくんだ」

「へぇ。頼んだらオレの似顔絵とか、描いてくれるかなぁ」

 美大なんて出てないし、修行もしてない。あたしは……。

 出かかった言葉を、冷めかけたカプチーノでお腹の底に流し込む。タルトのほのかな甘さが、居心地の悪さを際立てていく。

「今日は帰ります」

 そう宣言すると、修が面白がるような目つきで笑いかけた。また来てくださいね、と。

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