木陰とコーヒーの香りに包まれて…
朝を告げる鐘の音が、丘の上の木陰に隠れた修道院から鳴らされる。
しばらくして汽笛が、木陰に囲まれた小さな麓の駅から、丘の上の修道院に返事を返した。
…これがこの辺りの毎朝の風景さ。
俺はその汽車に朝一番で乗り、わざわざこんな辺境の修道院の駅まで、時間を見つけては
足を運んでいる。まったく変な趣味が出来ちまったもんだ。
俺がお気に入りのこの駅は、四方が森に覆われている。駅前にはただ、修道院へ向かう
一本の道が伸びているだけで、他にこれといった建物は一切ない。
この駅の中に、待合室をかねた喫茶室がある。
ここに居ると、周りには何もないせいで、修道院の鐘の音が良く聞こえて来るんだ。
それ以外は行き来する汽車の音と、森から聞こえる鳥や動物たちの声か、雨音か、
風の音か…、とにかく辺境という言葉がそのまま合っている風景さ。季節によって
そんな自然の音は違って聞こえるが、都会の喧騒の中にずっと居るなら、
そんな時の移り変わりにも鈍くなっちまうモンだな。
天気がいいと、木漏れ日が昼少し前に差してくる。木陰の駅と別名がつけられている
この駅は殆どが木造で、待合室に漂う木々の香りが気持ちいい。この駅が置かれた
理由は、小高い丘の上に建つ、これまた別名[木陰の修道院]の為だ。こんな辺境の地に
修道院が建てられたのは、自然の中で修道に励むように…、と、当初は信者たちだけに
対してだったんだが、それに加え、都会の生活に疲れた人々の癒しの場所としての
役割もいつからか出来ちまったみたいだな。ホテルと違って大したおもてなしは
しないが、逆にホテルにはないおもてなしが人気みたいなんだな。
俺も修道院の世話になったコトがあるんだが……、いや、今は思い出したくないな。
そんな都会に疲れた人々の受入れが、修道院だけじゃ間に合わなくなっちまったのか、
いつからか、この木陰の駅の待合室に喫茶店が出来ていた。ここで出されるコーヒーや
紅茶は、すべて修道院で栽培されたものさ。それにこの修道院のコーヒーや紅茶が、
都会でも中々の人気がある代物って訳さ。それがいつの間にかお客の要望もあって、
わざわざ修道院まで行かなくても、この木陰の駅でおいしいコーヒーや紅茶を飲める様になったんだ。中には旅の途中にわざとここで途中下車をして、喫茶店に寄る客も居るって
言うじゃないか。
確かにな…。
こうやって森に囲まれた辺境の場所で、ゆっくりコーヒーや紅茶だのを楽しんでいると、
町の中の喧騒がどうでもよくなって来やがるな…。この喫茶店には、いつも木造駅舎の
独特の木の香りに、とても穏やかに包まれているんだ。まるで来るもの拒まず…って
雰囲気で、旅人たちを歓迎しているかの如くにさえ感じられるんだな。これがもし雨上り
だったら、森からの吹き降ろしの風の香りも合い重なり、それが一層ここのコーヒーや
紅茶を美味しくしてくれるって訳だが、丁度昨夜にこの森一帯に雨が降った。
だから今日はこの駅を目当てにした客がいつもより多めだ。ま、この路線の乗客に
とってみりゃあ、雨上がりの木陰の駅の喫茶店に寄らないなんて勿体無い…ってのが
常識らしいんだなこれが。
かく言う俺も、今日も何の用事もないのにここに来ちまっていた。
こうして羽を休めに来たのは、雨上がりってのもあり、どうも少なくねぇみたいだな…。
何の用事もない……?
いや、実はあるのかもしれねぇんだ。
ま、このコーヒーに比べれば大した用事じゃないんだがな。
*「お待たせ致しました。」
いい香りと共に、お待ちかねのコーヒーが運ばれてきた。
*「今日もいらしてたんですね。」
俺「まぁな…。」
このお店の看板娘…という訳じゃないが、ここに雇われている若いウェイトレスの
何人かと、俺はすっかり顔馴染みになっちまってたんだ。
俺「また無駄な時間を過ごしに、来ちまっているのかもしれんがな…」
*「そう言って、いつも来て下さってますわね。無駄だなんて、とんでもありませんわ。」
俺「どうだかな…。だがこの店に来る事は無駄じゃあないさ。」
ウェイトレスは笑いながら、カップに丁度良い量のコーヒーを注いでくれた。
*「どうぞごゆっくり。」
俺「ありがとな。」
ゆっくり…か。
確かにここの駅には、都会の様にひっきりなしに汽車が来る訳じゃない。
むしろ都会みたいにせかせかするのが難しいくらいだ。だからつい本来の用事を
忘れちまう。ゆっくりと流れる時間の中で、だが砂の一粒みたいな小さな可能性を求め、
俺はこの場所に何度も来ちまうんだ…。小さすぎる探し物をしに、
小さな駅に、
ゆっくりしに…。
ん…? どっちだ?
本当ならゆっくりもしてられねぇんだがな…
こんな風にいつまでも悠長なコトを言ってりゃ、探し物はどんどん見つけにくく
なるだけなんだ。本腰を入れねぇと手遅れになっちまうんだろうが…
…だめだ。
せかせか出来ねぇ。
てか踏ん切りが付かねぇ…。
この木の香りとコーヒーの香りに包まれちまったら、どうも時間の流れが止まっちまう
らしいな。
何を探しているのかって?
難しいな…
木陰に隠れた思い出、とでも言おうかな…。
いつだか俺は、修道院の世話になった事があるんだが、いや、世話になったと
言うべきじゃねぇのかもな…。あの時の事を、今の修道院は知らねぇだろうな。
もう十何年も前の話だし、今ではあの時の事を、誰も知らない方がいいかもしれねぇな。
駅前にある唯一の道を上がって行くとその修道院はあるんだが、どうもあの思い出が
邪魔をしちまうんだ。探し物は修道院へ行く道の途中にあるんだがな…。
何だか足が向けにくいんだなこれが…。
ふっ…。
いつもこんな風にオセンチになりながら、何度かコーヒーをお代わりしつつ、
この喫茶店で日の入りを迎えちまうのが悪いくせさ。今日こそは…なんて
毎回思ってみるんだが、いつも無駄に時間を過ごしちまうんだ。だから顔を
ウェイトレスさん達にも覚えられちまったって訳さ。
だが…予期せぬ事ってあるんだな…。
幸運と言うか不運というか、
この出来事のお陰で、俺はそれまで重くなっちまってた腰を、やっとこさ上げる事が
出来たんだ。いつまでも、この木陰の駅の喫茶店で、オセンチに浸っている訳にも
行かねぇよな…。