「絶対、離さないからね」〜同窓会で孤立した元マドンナを連れ出したら、大衆居酒屋で退路を塞がれた〜
店の引き戸が閉まると、同窓会の脂ぎったざわめきが嘘みたいに遠のいた。
駅前の大衆酒場は二十四時間営業を掲げているだけあって、深夜でも独特の生活臭が満ちている。
煤けた黄色い短冊メニュー、脂の浮いた換気扇、カウンターの端っこで音声を垂れ流す小さなテレビ。
誰かを値踏みしたり、品定めするようなさっきの会場の空気とはまるで違っていた。
千夏はパイプ椅子を引いて座るなり、品書きも見ずにホッピーの白を頼んだ。俺はウーロン茶にした。
「……あんた、飲まないの?」
「明日、出張だからな」
「土曜の同窓会のあとに仕事とか、相変わらず真面目すぎでしょ」
「現場は週明けの月曜からだけど、場所が地方なんだよ。明日の昼過ぎには新幹線乗らなきゃいけない。午前中には家出る」
「ふーん。じゃあ、始発まで飲んでも、帰って三時間寝れば間に合うじゃん」
「寝坊したら終わりだろ。白石、一杯目から飛ばしすぎだ」
「だから何。いいじゃん、土曜の夜なんだから」
千夏はジョッキを呷り、喉を鳴らしてホッピーを流し込んだ。
唇の端に残った白い泡を、乱暴に手の甲で拭う。
俺は見ていたのを悟られないよう、ウーロン茶のストローを指先で回した。
さっきの会場で、こいつはずっと笑っていた。
誰かが婚約破棄の話を振るたび、「もう終わった終わった! 厄落とし完了!」と声を張り上げて道化を演じていた。
腫れ物に触るみたいに苦笑いする男たちも、妙に同情した目で「大変だったね」と肩を叩く女たちも、誰も千夏の内側なんて見ていなかった。
男に捨てられた、かつてのマドンナ。
あいつらの目には、そんな下品な札が見えていたはずだ。
千夏はずっと笑っていた。
けれど、グラスを持つ指が白くなるほど強張って、目元の筋肉が引きつっていくのを見ていたら、気づいた時には俺のほうが立ち上がっていた。
「帰るぞ」
そう言って、手首を掴んで強引に引きずり出した。
周りの呆気にとられた視線なんて、どうでもよかった。
「ねえ」
「ん」
「惨めな女だと思って、助け舟出したつもり?」
千夏がジョッキを置いた。氷が底でカチャリと鳴る。
「そんなふうに見てない」
「じゃあ何。あたしが泣きそうだったから?」
「泣いてなかっただろ」
「当たり前じゃん。あんなところで泣くわけないでしょ」
「なら、それでいい」
「よくないよ」
千夏がじっと俺の顔を睨みつけてきた。
酒のせいか頬は赤いが、眼差しだけが妙に据わっている。
「あんたさ、昔からそういうとこあるよね。言いたいことあるくせに、いざとなるとすぐ黙って逃げる」
「……俺がいつ逃げたよ」
「逃げたじゃん。高校のときだってそうだった」
思いがけない言葉に、喉が詰まる。
「高校……文化祭のことか?」
「そうだよ。高二の秋。あたしが教室で死にかけてたとき」
覚えている。忘れられるわけがない。
あれはいじめでも押し付けでもなかった。
千夏は昔から要領が良くて、頼まれると断れない性格だった。
「千夏なら絶対いい感じにしてくれる」「白石さん、これお願いしていい?」ってクラス中から期待されて、千夏はいつもの満面の笑みで「いいよ、任せて!」と全部引き受けてしまったのだ。
文化祭前日の夜、七時半過ぎ。完全下校時刻の直前だった。
俺は一度家に帰って夕飯を食った。
食ったのに、放課後に見た千夏の引きつった笑顔がどうしても頭から離れなくて、落ち着かなくて、「教室に忘れ物をした」という見え透いた嘘を親について、自転車を飛ばして学校へ戻った。
教室の引き戸を開けると、千夏が一人、床に散らばった大きな外装看板の前で立ち尽くしていた。
パンクして、泣き出しそうな顔で筆を握っていた。
俺は「大丈夫か」とも言えず、隣にどっかり座り込んで、何も言わずに半分残っていたペンキの作業を黙々と手伝った。
二人で一言も喋らず、ひたすら塗って、完全下校のチャイムが鳴る直前にやっと終わらせた。
「あのときさ」
千夏がグラスを揺らしながら言った。
「終わったあと、あたしが『手伝ってくれてありがとう、昇降口の自販機でジュース奢るよ!』って言ったじゃん」
「……」
「あんた、なんて言ったか覚えてる? 『いや、いい』って顔も見ずに言って、鞄ひっつかんで小走りで逃げて帰ったんだよ。あたし、一人でぽつんと取り残されてさ。すっごい寂しかったんだからね」
「あれは……」
「あんた、昔からそうじゃん。あたしが踏み込もうとすると、いつもそうやって逃げる」
千夏の手が、カウンターの上で固く握りしめられた。
「みんな、あたしの顔見て勝手に決めるんだよ。『千夏なら平気』『千夏ならなんとかしてくれる』って。笑ってれば何でも許してくれるって思われて。……付き合ってたあいつだってそうだった。『大丈夫』って言ったら本当に大丈夫だと思い込んで、弱音吐いたら『らしくない』って面倒くさそうな顔されてさ」
「……そいつがバカなだけだ」
「バカだよ。最低だよ。結婚式場も決めて親にも挨拶して、指輪も買ってさ。それなのに仕事先の女と浮気して『お前は一人でも生きていけそうだから』だって。意味わかんないでしょ」
千夏は吐き捨てるように笑った。
「先月別れて、式場のキャンセル料も払って、親への説明も全部一人でやって。今日だって『もう吹っ切れたから!』って笑ってたら、みんな安心した顔してさ。……平気なわけないじゃん」
「白石」
「惨めだよ。笑うしかないじゃん。あそこで泣いたら、みんな気まずくなって、余計に可哀想な女扱いされるだけでしょ。だから笑ってたのに……あんたが勝手に引っ張るから」
「見てられなかったんだよ」
「ほら、やっぱり同情じゃん」
「違う!」
思わず声が大きくなり、カウンターの店員が一瞬こちらを見た。
俺は息を吸い、声を落とした。
「昔から、お前はすげえと思ってた。綺麗で、目立ってて。でもそれ以上に、人が見てないところで全部背負い込んで、ボロボロになりながら笑ってるところを……ずっと見てた」
「……何それ。今さら何言ってんの」
「今さらだよ。高校のときだって、ただ隣に座ってペンキ塗るのが精一杯だった。お前には彼氏もいたし、取り巻きもいたし、俺なんかが踏み込んでいい場所じゃないと思ってたから」
「だからって、逃げることないじゃん」
「逃げてたよ。お前と二人きりになったら、まともに喋れなくなるのが怖かったんだよ」
千夏が息を呑む気配がした。
「終電、もうすぐだな」
俺はあえて壁の時計を見上げた。十一時五十分。
「白石、そろそろ出るぞ。駅まで送る。タクシー代は出すから」
「……タクシー?」
「ああ。家まで結構あるだろ」
「乗らない」
「白石」
「乗らないって言ってるじゃん」
「頼むから言うこと聞いてくれ。明日、後悔するぞ」
「何を後悔するの? 酔っ払った女の戯言だから、明日になったら恥ずかしくなるって言いたいの?」
「お前、冷静じゃない」
「冷静だよ! ずっと冷静だったよ! 浮気されたときも、式場キャンセルしたときも、さっきの会場でも! あたしが冷静でいなきゃ全部壊れるから、ずっと我慢してたんだよ!」
千夏が立ち上がった。
俺の上着の襟元を、両手でぎゅっと掴んで引き寄せてくる。爪が食い込むほどの強さだった。
「……ねえ、なんで白石って呼ぶの?」
吐息が唇にかかるほどの距離。
ホッピーのアルコールと、泣き腫らしそうな熱が真っ直ぐぶつかってくる。
「昔からそうじゃん。あんた、あたしのこと一回も名前で呼んでくれたことない。……名前で呼んでよ。千夏って呼びなよ」
「白石、離せ……」
「千夏って呼んで! また逃げるの!? ここで逃げたら、あんた一生あたしのこと白石って呼ぶんでしょ!?」
千夏の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちて、俺の胸元に染みを作った。
ずっと貼りつけていた仮面が、完全に剥がれ落ちていた。
もう、誤魔化せない。
明日の出張とか、大人の分別とか、格好つけとか、そんなブレーキは全部粉々に砕け散っていた。
俺は千夏の手首を、痛くない程度の力で包み込んだ。
「……千夏」
千夏がびくりと肩を揺らした。
「逃げてない。もう逃げない」
「……嘘つき」
「嘘じゃない。俺は、お前が可哀想だから連れ出したんじゃない。……高校のときから、ずっと好きだった。手が届かないと思って諦めて、別のやつと付き合ったりもしたけど、お前のこと一回も忘れられたことなんてなかった」
「……今さら」
「今さらだ。最低なタイミングだってわかってる。でも、もうお前が一人で泣いてるのを見過ごすのは嫌だ。今も、お前が好きだ」
千夏は上着を掴んだまま、額を俺の胸に押し当てた。
くぐもった嗚咽が漏れる。肩が激しく震えていた。
俺は迷わず、その背中に腕を回して抱き寄せた。華奢な体が、驚くほど熱かった。
「……あいつのこと、まだムカつくし、悔しいし、全部消えたわけじゃないよ」
「ああ」
「あんたに当たったり、急に泣いたり、めちゃくちゃ面倒くさいと思う」
「受けて立つ」
「……明日になって、やっぱ出張行くからナシねとか言ったら、殺すから」
「言わないよ。出張には行くけど、夜には絶対電話する」
千夏は鼻をすすりながら、ようやく俺の胸から顔を上げた。
目元を真っ赤にして、ひどい顔で小さく笑った。
「……終電、行っちゃったね」
「ああ。さっき駅の発車メロディが微かに聞こえた」
「始発まで、まだ四時間以上あるよ」
「知ってる」
千夏はカウンターの上に散らばっていたホッピーの空き瓶を端に寄せると、椅子に座り直した。
酒で感情を誤魔化す時間は、もう終わったのだ。
「すみません」
俺は厨房にいる店員に声をかけた。
「温かいお茶、二つもらえますか」
「はいよ、熱いの出すね」
運ばれてきた湯呑みから、白い湯気が真っ直ぐに立ちのぼる。
千夏は両手で湯呑みを包み込み、ふう、と息を吹きかけた。
そして、机の下で、空いている方の手を探るように伸ばしてくる。
俺は逃げずに、その冷え切った指先をしっかりと握り返した。
「……あったかい」
「熱いから気をつけて飲めよ」
「お茶じゃなくて、あんたの手」
千夏は悪戯っぽく笑って、俺の肩に頭を預けてきた。
外の通りでは、終電を逃した酔客の声が遠ざかっていく。
明日の昼過ぎには新幹線に乗らなきゃいけない。
寝不足で頭は痛くなるだろうし、出張先での仕事はきっとハードだ。
けれど、繋いだ手の温もりを確かめながら、俺は生まれて初めて、朝が来るのをちっとも怖くないと思っていた。




