なぜ、人間は恋愛を「ゲーム」にしたんだ?――主婦、ハンバーグを焼きながら人類の承認欲求を考える
なぜ、人間は恋愛を「ゲーム」にしたんだ?
始まりは、本当にそれだけの疑問だった。いわゆるギャルゲーや乙女ゲームのことである。
プレイヤーが主人公となり、魅力的な異性、あるいは同性のキャラクターたちと会話を交わし、選択肢を選び、好感度を上げ、最終的にハッピーエンドを目指す。
よく考えたら、おかしくないだろうか。
恋愛というのは本来、手間がかかり、不確実で、相手の考えていることがさっぱり分からなくて、不安で、自尊心を削られたり満たされたりする、極めて生々しい人間関係の構築プロセスだ。
それを電子回路とプログラムの中に閉じ込め、「選択肢を選んでフラグを立てる」というシステムに落とし込む。
なぜ、そんなことをしたのだろう。
誰が最初にそれを思いついたのだろうか。
「そりゃ、ゲーム会社が商売になると思って作ったからじゃない?」
頭の中で、もう一人の私がいち早くツッコミを入れる。うん。まあ、ビジネスとしてはそうだろう。
需要があるから供給があり、マーケットが開拓されたから商品が並んだ。実に分かりやすく、経済の基本である。
……だが、私が知りたいのは、そこではないのだ。
なぜゲーム会社は、「恋愛」という極めて主観的で非論理的な体験が、「ゲーム」という商品として成立すると考えたのか。
そしてなぜ、買い手である人間は、ドット絵や美麗なイラスト、ポリゴンで描かれた架空のキャラクターとの疑似恋愛に、あれほど熱狂してお金と時間を払ったのか。
欲望が先だったのか、
それとも商品が先だったのか。
トントン、と再び包丁を動かすものの、もう思考のギアは完全に別の方向へ噛み合ってしまっていた。もはや小説のプロットどころではない。
人類と恋愛ゲームの奇妙な関係についての考察が、人参の千切りと一緒に、まな板の上へ積み上がっていく。
◇
まず、時代を1990年代へ飛ばしてみよう。
男性向けの恋愛ゲーム、いわゆるギャルゲーが大きく注目を集め、恋愛をゲームとして楽しむ文化が広がっていった。
1994年には『ときめきメモリアル』が登場して恋愛シミュレーションゲームの代表的作品として大きな人気を集め、同じ年には女性向け恋愛ゲームの草分け的存在として知られる『アンジェリーク』も発売されている。
……と、ここだけを見ると、恋愛ゲームは1990年代に突然、彗星のように文化の表舞台へ現れたようにも見える。
でも、たぶん違う。もっと前から、人間は「コンピューターの中で誰かと親しくなる」という遊びを、少しずつ試していたはずだ。
初期のPCゲームやアドベンチャーゲームの中にも、キャラクターとの会話や親密さを楽しむ要素があった。
つまり、1990年代の恋愛ゲームの隆盛は、突然生まれた突然変異というより、それまで積み重なっていたものが、技術の進歩や表現方法の成熟によって一気に形になった結果なのではないか。
では、その下地には何があったのか。ゲームという媒体が生まれるよりずっと前から、人間は何をしていたのだろう。
答えは、たぶん簡単だ。物語である。
小説、少女漫画、少年漫画、映画、テレビドラマ、ポップソング。
人間は昔から、気が遠くなるほど大量の「理想の恋愛物語」を作り、それを読んで、観て、聴いて、うっとりしてきたのだ。
「こんな恋がしたい」
「こんなふうに愛されてみたい」
そこにはきっと、「理想の恋愛」に対する大きな需要があったはずだ。ならば、ゲームが加えたものは何だったのだろう。
小説や映画では、私たちは基本的に観客であり読者だ。
どれほど主人公に感情移入しても、物語の結末そのものを自分の手で変えることはできない。
ところが、ゲームは違った。それまで見る、読むだけだった恋愛物語を、
「自分で選ぶ」
「自分で操作する」
「自分が主人公になる」
という、能動的な体験へ変えてしまったのだ。
鑑賞から、参加へ。
……あれ?
私は思わず包丁を置いた。
これ、けっこうすごくないか?
ストーリーを味わうだけなら、小説でいい。
胸キュンしたいだけなら、少女漫画でもいい。
それなのに、わざわざコントローラーを握り、画面上の選択肢を選ばせる。
その「手間」に、いったい何の意味があるのか。たぶん、その手間こそが重要なのだ。
「私がこの世界を動かしている」
「私がこの相手との関係を築いている」
そんな強い当事者意識を生み出す。ゲームは、物語をただ見せる装置ではなく、自分が関係性に介入しているという感覚そのものを楽しませる装置でもあるのだ。
◇
玉ねぎを切りながら、私はさらに考える。みじん切りにしていたら、猛烈に目が痒くて前が見えない。
ここで第二の疑問が持ち上がった。
なぜ、恋愛はこれほどゲームというシステムと相性が良かったのだろう?
ゲームというものは、基本的に「ルール」と「入力に対する反応」、そして場合によっては「数値」でできている。
ボタンを押せば、キャラクターが跳び、敵を倒すと経験値が入って、レベルが上がる。
……これ、恋愛にも少し似ていないか?
話しかけると笑顔が返ってきて、プレゼントを渡せば喜んでもらえて、デートに誘うとイベントが発生する。
もちろん、現実の恋愛はそんなに単純ではない。
現実には「好感度80」なんて表示されないし、「あと二回デートすれば告白イベント発生」なんて親切な案内もないのだから。そして何より、相手の心の中を見ることができない。
あの人は、今、自分のことをどう思っているのだろう。
さっきのメッセージ、冷たすぎただろうか。
余計なことを言って嫌われたんじゃないか。
デートの誘いをOKしてくれたのは、義理なのか、それとも脈ありなのか。
現実の恋愛は濃霧の中を手探りで歩くようなもので、相手の内面はブラックボックスだ。こちらの言葉や行動に対してどんな感情が返ってくるのか、正確には分からない。
だから人は悩み、傷つき、そして、眠れなくなる。ところが、ゲームの中では違う。
好感度という形で曖昧な関係をある程度「見えるもの」にでき、イベントが起こって特別な台詞が出たり、BGMが変わったりする。
そして、もし失敗してもセーブデータがあればやり直せる。
「あ、この選択肢を選ぶと好感度が上がるんだ」
「なるほど。このキャラクターは休日に図書館へ行くタイプなのか」
現実では絶対にできない、「相手の心をある程度パラメーター化すること」と「世界線をやり直すこと」。そう考えると、恋愛ゲームというものは、単純に「恋愛をゲームにしたもの」ではないのかもしれない。
むしろ、現実の恋愛にある「分からなさ」や「失敗する怖さ」をある程度取り除き、安全に関係性を体験できるようにしたもの。そんな見方もできる。
「……なるほどなぁ」
湯気が立ち上る鍋の前で、私は一人、大きく頷いた。
傷つきたくはないけれど、誰かとの関係は欲しい。失敗はしたくないけれど、誰かに選ばれたり、関係が深まったりする達成感は欲しい。
人間という、弱くて勝手な生き物の欲求に、ゲームという仕組みがうまく応えたのだ。そう考えると、恋愛ゲームが長く愛されてきた理由も、少し分かる気がする。
◇
だが、ここで頭の中のツッコミ役が待ったをかけた。
「ちょっと待て、自分。そこまでなら、よくあるゲーム論だ。それだけで納得していいのか?」
確かに。何かがまだ引っかかる。
構造の話としては分かるけれど、人間が恋愛ゲームに感じている「気持ちよさ」の正体としては、まだ何か足りない気がするのだ。
そこで私は、男性向けのギャルゲーと女性向けの乙女ゲームについて考えてみた。もちろん作品にはさまざまなタイプがあるし、男女で完全に分けられるものでもない。
ただ、あえて大まかな傾向として考えてみるなら、男性向けでは複数の魅力的な女性キャラクターの中から主人公が「誰か一人を選ぶ」ことで自分が主導権を握り、相手との関係を進めていく。
一方、女性向けでは複数の魅力的な男性キャラクターから、「君だから」「お前じゃなきゃダメなんだ」と、主人公が強烈に「選ばれる」構造も多い。
ここだけ見ると、「なるほど! 男は攻略したい。女は愛されたい。つまり性差ですね!」……と、よいしょと、まとめたくなる。
私は首を振った。
いやいやいや、雑すぎるだろう。そんな「男脳・女脳」みたいな二元論で片付けていいわけがない。
私だって主婦だが、「自分の手で誰かを選び取りたい」という欲求は分かる。そして男性だって、「何も言わなくても自分を丸ごと受け入れてほしい」という強烈な被愛欲求を持っているはずだ。
男性向け作品にも、無条件で主人公を肯定してくれる幼なじみや、包み込むように愛してくれる年上キャラクターはいるし、女性向け作品にも、自分の手腕で「この男を落としてやる」という攻略の快感はある。
男だから攻略、女だから受動なんて、そんな単純な話ではないのだ。たぶん人間は、男女に関係なく、「誰かを自分の意志で選びたい」という欲求と、「誰かから、自分だけを選んでほしい」という欲求の両方を持っている。
『主体性と、承認』
自分で選びたいけれど、選ばれたい。なんとも矛盾している。けれど、人間なんてそもそもそういうものなのかもしれない。
そして、恋愛ゲームという商品は、その二つの欲求をそれぞれ分かりやすい形にして見せてくれるのだ。ゲーム会社が男女の欲望を作ったというより、人間がもともと持っていた複雑な欲求を、遊びやすい形にパッケージした。
私は、そんなふうにも見えてきた。
では、そのパッケージの奥底にあるものは何なのだろう。男とか女とか関係なく、人間が恋愛ゲームに求めていた、一番根っこの快感とは何なのか。
◇
鍋にもやしを入れてさっと湯がく。
いつも思うが、料理本の少々とか、さっととかの表記をどうにかしてくれないだろうか。自炊をするようになって二十年以上経つが、いまだに料理のふんわりした表記が良く分からない。専業主婦になって二年、いまだに計量スプーンが手放せない、なのに量りは面倒でたまにしか使わない。
義母は、「料理は勘と気分だ、文句あるやつは食うなの気持ちでオラは作っとる、アンタもそれで行け」と同居一年目で言われた。あれは、義母の勘と気分と気持ちがバチっと固まっているから可能であって、私の勘と気分は固まっているのだろうか。もやしをザルにあけてめんどくさいことを考える。もやしをゆでるのって何年経っても難しい。あと、高くなったよね、もやし。
……話を戻そう。
ここで、一つ極端な問いを投げてみた。人間は本当に、恋愛ゲームで「理想の恋人」を買っているのだろうか?
……ん?
自分で問いかけておいて、矛盾してないかと思った。
「理想の恋人と付き合いたいからギャルゲーや乙女ゲームをやるんでしょ、何言ってるの?」
そう思うかもしれない。画面の中の可愛い女の子や、かっこいい男の子。彼らと恋人同士になりたいのは当たり前じゃないか、と。
でも、本当にそれだけだろうか。
もし、美しい容姿や魅力的な性格を持ったキャラクターそのものが目的なら、アニメを観たりイラストを眺めたりするだけでもいいはずだ。なぜ、そこに「自分」が介入する必要があるのか。
画面の中の美少女が主人公に向かって微笑み、画面の中のイケメンが主人公の手を握って「お前しか見えない」と囁く。
その瞬間、プレイヤーが受け取っている一番大きな報酬は、相手の魅力そのものではないのではないか。
「こんなに魅力的な相手から、愛され、選ばれ、必要とされている自分」
その感覚なのではないか。手が止まった。
そうか、そういうことか。
恋愛ゲームが提供しているものは、理想の恋人というコンテンツだけではない。その恋人から愛されることによって生まれる、「自分は愛されるに値する存在なのだ」という感覚まで含めた体験なのではないか。
ギャルゲーをプレイするとき、そこにあるのは単に「可愛い女の子と付き合える」という喜びだけではなく、「こんなに可愛くて魅力的な女の子が自分という存在を選んでくれた」という自己価値の確認でもある。
乙女ゲームだって同じだ。
世界を救うようなヒーローや、誰も寄せ付けないクールな天才、あるいは傍若無人な俺様といった「普通なら簡単には振り向いてくれなさそうな人」が、自分にだけ弱みを見せ、自分だけを特別扱いしてくれる。
それは単なる胸キュン以上に、「私は、この人にとって特別なんだ」という感覚を与えてくれるのだ。そう考えると、恋愛ゲームとは恋人を作るゲームという顔をしながら、『自分が何者かになれるゲーム』
でもあったのではないか。
画面の中の魅力的なキャラクターは、プレイヤーの価値を照らしてくれる鏡になる。私たちは恋人を攻略していたけれど、同時に、「愛されるに値する自分」を、ゲームの中で組み立てていたのかもしれない。
◇
「……深い。深すぎるぞ、恋愛シミュレーションゲーム」
目の前で焼かれているハンバーグに向かって、思わず独り言が漏れた。今日は、娘のリクエストでピーマン、ニンジン、玉ねぎ入りのハンバーグである。娘曰く、これなら嫌いなピーマンと玉ねぎが食べられると自分から言ってきた。うちの娘すごいな、給食でも苦手な野菜や魚を完食し、家でも頑張ろうとしている。ママは君の年に家で苦手野菜を克服しようなんて考えもしなかった。
ところで、ギャルゲーや乙女ゲームには、「ハーレム」「逆ハーレム」と呼ばれる構造がある。主人公の周りに、なぜか都合よく多様なタイプの魅力的な異性が集まり、主人公に好意や興味を寄せている。
現実でそんな状況が発生したら、たぶん地獄だ。人間関係のトラブルは異常なことになりそうだし、倫理的にも社会的にもなかなか大変である。
現実の恋愛では一人しか選べないから、その反動で複数の相手に好かれる状況を楽しんでいるという説明もできるだろう。
でも、私はそれだけではない気がした。ハーレム構造の魅力は、恋愛的な独占そのものより、自分のいろいろな側面を、それぞれ別の誰かが認めてくれるという万能感にもあるのではないか。
元気な幼なじみは「日常の自分を認めてくれ、クールな先輩は「背伸びしたい自分」を認めてくれ、年下の後輩は「頼られたい自分」を認めてくれ、ミステリアスな転校生は「自分の中にある特別な何か」を見つけてくれる。
人間は多面的な生き物だ。現実の一人の人間が、自分のあらゆる欲求を完璧に満たしてくれることなんて、ほとんどない。現実のパートナーシップとは、お互いのズレや不完全さをすり合わせ、妥協し、補い合う地道な作業だ。だからこそ、フィクションではその面倒くさい部分を全部取っ払ってしまい、
「あなたのどんな側面も、誰かが受け止めてくれますよ」
という世界を作れる。現実には存在しないからこそ、フィクションの中で完璧な世界を作る。考えてみれば、ずいぶん贅沢な遊びである。乙女ゲームも以下同文。
◇
「……待てよ」
そこで、ふと現代に目が向いた。恋愛ゲームというジャンルそのものは、時代とともに形を変えてきた。ソーシャルゲーム、ガチャ、アイドルコンテンツ、推し活、配信文化。
恋愛ゲームで育った親密さを疑似体験する仕組みは、別のエンターテインメントにも姿を変えて広がっているように見える。
では、あの欲望はどこへ行ったのだろう。
「理想の自分を体験したい」
「安全に誰かから認められたい」
「自分を特別な存在として扱ってほしい」
消えたわけがない。むしろ、もっと広い形になったのではないか。
推し活、アイドル、配信者、VTuber。そして、AIチャットボット。
……つながった、かな?
もちろん、これらを全部を恋愛ゲームの延長と断定することはできない。楽しみ方も目的も人それぞれだ。でも、そこに共通するものがあるようには思える。
「自分を認識してくれる存在がいる」
「自分の存在を肯定してくれる」
「自分に何かを返してくれる」
そんな、インタラクティブな親密さだ。
配信者にコメントを送ると反応が返ってきて、推しに応援を届けてその活動を支え、AIに今日あった出来事を話して言葉を返してもらう。そこでは、従来の「恋愛」という枠組みだけでは説明しきれない親密さが生まれている。テクノロジーが進歩するほど、その欲求に応える方法は増えているのだ。
恋愛ゲームはその一つの形であり、それが今ではもっと多様な姿になっている。
そう考えると、1990年代の恋愛ゲームから現在の推し活や配信文化、AIとの会話まで、一本の線で完全につながっているとは言えなくても、
「人間は、他者との関係を通して自分の存在を確かめたがる」
という欲求は、ずっとそこにあるように思える。人間は、どこまでいっても自分という存在の価値を確認したい生き物なのかもしれない。
そのために物語を作り、ゲームを作り、キャラクターを作って、そして今度は画面の向こう側の存在と会話まで始める。
◇
恋愛ゲームなら、選択肢を選べば次の展開が決まり、セーブしておけば失敗してもやり直せる。でも、今日の夕飯にはそんな便利な機能はない。
ハンバーグが美味しくできるかどうかも分からず、家族が何と言うかも分からないし、そもそも明日の私が何を考えているかだって分からないのだ。選択肢もなく、セーブデータもない。これが私の現実だ。
だからこそ、人間は物語を作るのかもしれない。
現実にはない「もしも」を作って何度でも別の人生を覗いてみたり、誰かに選ばれる自分や誰かを選ぶ自分を想像したり、失敗しない恋を想像したりする。そして、その物語の中で自分が何者なのかを確かめるのだ。
そう考えると、ゲームも、小説も、漫画も、映画も、推し活も、もしかしたら全部、根っこのところでは似たようなことをしているのかもしれない。
「私は、ここにいる」
「私は、誰かにとって意味のある存在だ」
この二つを、何度でも確認するために。
◇
「ママ、ハンバーグおいしいよ。ピーマンと玉ねぎ入ってるのに。ハンバーグってすごいね」
「ま!」
娘が私の功績を讃えてくれた。なんて、良い子なんだろう。ママ超嬉しい、お代わりあるからね。隣に座る息子は手づかみでハンバーグを食べながら、反対の手を自身の小さい頬に添えて笑顔をくれた。嬉しいが、文明の利器であるフォークを使って欲しい。
「人参サラダもおいしいね、これ好き。ママ、ありがとう。じいじ、これ食べて。おいしいよ」
文章にすると、娘は天使なんだなと分かる、おかしい、最近ギャングエイジの発達段階に入って手を焼いているはずなのに。天使は天使だった。ママ間違ってた、ごめん。
義父はニンジンが嫌いだから、食べないんだが娘にどう言えばいいんだろう。そう思ってたら義父が孫にあーんされて食べた。え、じいちゃん、それ未加熱の人参。孫パワーってすげえな、次はセロリ食わせよう。
義母は人参サラダを食べて、マヨが足りねえな、足していいかと聞いてきた。夫は今日も残業である、早く会いたい。
テレビで、カ〇〇ーチョという辛くて細いポテトチップスに、細切りした人参とマヨネーズを混ぜた、ニンジン和えが紹介され、夫が食べたいと材料を買ってきました。作ってみたらおいしかったです。辛いの苦手で生人参苦手な娘がもりもり食べました。




