1日目(2)
挨拶のあと、
私に任されたのは、打ち合わせ通り、
ミレア殿下のお茶の片付けだった。
ティーポットとカップを載せたワゴンを押し、
調理場へ戻る。
下級侍女の仕事としては、
ごく当たり前の役目だ。
廊下に出たところで、
ふと、先ほどの声を思い出す。
「……ありがとう」
ほんの少し、息を含んだような声。
それから、「よろしくね」と続いたとき、
語尾が、わずかに柔らかくなった。
……可愛かったなぁ。
そう思ってしまったことに、
少しだけ驚く。
伏せていた視線の先にあったのは、
床と、裾と、揃えられた靴先だけだ。
顔は、ほとんど見えていない。
それでも、
声ひとつで、
こんなふうに印象が残るものなのかと、
内心で首をかしげる。
ワゴンの上で、
ティーポットがかすかに揺れる。
中身は、三分の一ほど残っている。
香りが、少し強い。
抽出は浅めのはずなのに、
立ち上がりが早い。
南部、ルエン渓谷沿いの茶葉だろうか。
湿度が高く、
香りだけが先に出やすい土地。
それとも、西部高原の末端か。
どちらにしても、
この国では「無難」な選択だ。
リヴァーン王国は、
表向きには安定した大国として知られている。
自然と魔法に恵まれ、
交易も盛んだ。
王政は続いているが、
政治の実務は官僚機構が担っている。
王族は決定しない代わりに、
象徴として、調停者として、
常に見られる立場に置かれている。
だからこそ、
王族の口に入るものには、
余計な意味が乗らないよう、
細心の注意が払われる。
ミレア殿下も例外ではない。
王弟の娘であり、
王位継承権は持たない。
けれどそれは、
自由を意味しない。
「将来、何かを背負わされるかもしれない存在」
として、
過剰なほど丁寧に、
過剰なほど安全に、
守られている。
カップの縁に残った痕に、
つい視線が落ちる。
薄く残った色。
完全には落ちきっていない。
指先が、思わず伸びて、
そっと触れてしまう。
……あ。
油分が、わずかに残っている。
そこで、はっとする。
だめだ。
ここから考え始めると、
きりがなくなる。
触って確かめるほどのことじゃない。
調べるなら、あとでいい。
今は、片付けるだけ。
私は手を引っ込め、
ワゴンを押す速度を少しだけ整えた。
表向きには、
私はただの下級侍女だ。
給仕のあとを整え、
何事もなかったように戻る存在。
それでも、
頭の片隅には、
あの声と、この香りが、
なぜか一緒に残っている。
理由は、まだわからない。
わからないまま、
調理場にワゴンを戻し、
静かに一礼する。
——まだまだ、すべきことは沢山ある。




