1日目、始まり
私はこと、セレナ・アウレリア・フィオルネは、
自分がひどく興奮していることを自覚していた。
今日が、下級侍女として働く初日だからだ。
私がお仕えするのは、王弟の娘であるミレア殿下。
兄君は、カイリス殿下。
お二人は兄妹でいらっしゃる。
下級侍女に、殿下へ直接言葉を向ける資格はない。
認識されることすら、本来は想定されていない。
それでも胸が高鳴るのを、止めることはできなかった。
——形式的な挨拶が始まる。
筆頭侍女が一歩前に出て、静かに名乗った。
「下級侍女、セレナ・アウレリア・フィオルネ。
本日より、殿下にお仕えいたします」
それは、私のための言葉ではない。
殿下の視界に、
“正体のわからない存在が紛れ込まないようにする”ための処置だ。
私は、その背後で頭を下げる。
視線を上げてはならない。
息遣いすら、意識されてはならない。
——これで終わり。
そう思った瞬間だった。
「……ありがとう」
かすかに、けれどはっきりとした声。
誰も動かない。
想定外の出来事に、
空気だけが一瞬、遅れて揺れる。
「よろしくね」
柔らかい声音だった。
下級侍女に向けられるはずのない言葉。
そう理解していても、
なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
下級侍女は、返事をしない。
それが規則だ。
私は何も言わず、
ただ、少しだけ深く頭を下げた。
その沈黙が、
この場所では
何よりも正しい応答だった。
——侍女長がおっしゃっていた通りだ。
ミレア殿下は、優しすぎる。
それは、美点でもある。
けれど、この場所では、
少しだけ危うい。
そう思ったとき、
ふと、昔の光景が浮かんだ。
王弟ご夫妻のお姿を、
拝見したことがある。
はじめて見たのは、
まだ小さかった頃だ。
人が集まっていて、
何が始まるのかもわからないまま、
ただ遠くから眺めていた。
その中で、
一人だけ、妙に印象に残った人がいた。
理由は、よくわからない。
ただ、
一瞬だけ、表情が変わったように見えた。
すぐに、
みんなに向けて微笑んでいたから、
見間違いだったのかもしれない。
それでも、
なぜか記憶に残った。
その人が、
王弟妃殿下だと知ったのは、
数年後のことだ。
孤児院への慰問の日。
記念品贈呈の代表に選ばれて、
列の先に立ったとき。
品を受け取る瞬間、
ほんの一瞬だけ、手が触れた。
そのとき、
うまく言葉にできない感覚があった。
怖くはない。
でも、
「今までと同じじゃない」
そんな感じがした。
あとになって、
王弟妃殿下が
魔法が得意だと知った。
公にされていないことも、
そのとき初めてわかった。
だから、
あの感覚が何だったのか、
完全には理解できていない。
ただ、
気になってしまった。
それから、
王室省の公開授業に通うようになった。
教えられるのは、
立ち方、座り方、
お辞儀や、声の出さない歩き方。
難しいことは、何もない。
でも、
そこには侍女たちがいて、
質問をすると、答えてくれた。
わからないままにしていい、
とは言われなかった。
十三歳になるまで、
私は毎年、その授業に通った。
理由は、はっきりしていない。
ただ、
気になったままのことを、
そのままにできなかっただけだ。
——そして今。
私は、下級侍女として、
ミレア殿下の前に立っている。
王族の優しさが、
この場所で、
どう扱われていくのかを、観測したいと思ったから。




