第9話 大合食(おおがっしょく)—都心、鍋の音
王都中央広場は、まだ夜の冷えが石畳に残るうちから息づいていた。
噴水の縁に沿って据えられた大鍋が六、街道側にさらに四。
旗ではなく匙印の布がひらめき、兵(盾)、聖(十字)、民(麦粒)の三刻印が朝の薄闇に浮く。
厨房隊は火床を組み、衛味院は水場を清め、塩連合と連邦運送は荷をほどいて濡れ塩を混ぜないことを互いに確認し合った。
鐘楼が一度だけ鳴り、広場に影が集まる。境界の霧が内側からじわりと口を開けてくる――都が、食卓を求めている。
「手順、最終確認」
俺は声を張った。
「一鍋につき“等分”を先に掛ける。兵は護衛と列整理、聖は水と祈り、民は受け取りと半分返し。塩湯は子どもと老い先。香草係は風下に回り、匂いの道を切らさない」
サーシャが頷き、レムが聖餅を割る。エリスは井戸を覗き、水面に小さく滴言を落として「清い」を思い出させた。
モフは一番大きな鍋の底に薄膜を走らせ、表面張力で火の揺れを読む。
やがて、リウスが石段を降りてきた。
彼の肩には木匙が一本、胸には監査役の紋が一つ。
軍と教会の双方を背に、彼は短く言った。
「――掌握はしない。滞らせない。
配る匙の監査は私がやる。だが、匙を上げるのは君たちだ、料理人」
俺は一礼し、鍋の蓋を持ち上げた。
◇
最初の湯気が立ちのぼると同時に、広場の空気が変わった。
飢えのざわめきが一歩引き、嗅覚が一斉にこちらへ向く。
人の列は、地区ごと、家ごと、見知らぬ者どうしが交互に入り、半分返しの約束を守る。
“先に刃を抜けない”〈等分〉の効き目が、広場を柔らかく縛った。
「子どもから」
ミナが一番目の椀を持つ。両隣の老婆と衛兵に半分を分け、戻ってきた半分を嬉しそうに飲み干した。
彼女の喉が鳴る音が、妙に遠くまで届く。
――今日は音がよく通る。
俺は二つ目の鍋に“抱擁”を薄く落とし、毒の名残を眠らせてから、香草〈灰眠〉で灰味を甘みに変える。
塩湯の鍋では、連邦運送の隊長が木匙を掲げ、「運ぶ手に誓う」と短く言って塩を量った。
塩連合の総代も渋い顔で頷き、水増しなしの白を晒す。
リウスは無言で見て、木匙で軽く鍋縁を叩いた――合図だ。
その時だった。
高所から白い霧が、幕のように広がった。
香ではない、匂いを奪う静香。
嗅覚の糸を切り、味の入口を塞ぐ、教会急進派と商人残党の悪い合作。
湯気が鈍り、列の足が止まる。子どもが匙を空中で迷わせた。
「匂いを奪う気か……!」
サーシャが剣に手をかけかけて、すぐに止める。〈等分〉の縛りを自ら破るわけにはいかない。
広場の端で、灰衣の男が薄く笑った。
“無”を売る顔だ。
「リウス!」
「わかっている」
だが、言葉では遅い。匂いは今、奪われた。
味の入口が塞がれたなら――別の入口を開けばいい。
「――蓋だ。叩け」
俺の声に、厨房隊が一斉に鍋蓋を持ち上げる。
レムが合図の祈りを短く唱え、サーシャが最初の一拍を石畳に落とした。
カン。
広場に金属の音が走る。
エリスが井戸の縁を指で叩き、噴水の水面が二拍を返す。
カン、コン。
モフが鍋底を滑り、三拍目で湯の膜を震わせた。
カン、コン、クン——音が湯気に混じり、味の道が耳から開く。
俺は低く呼ぶ。
真名〈連環〉。
混ざるのは食材だけじゃない。拍と息と唾も混ぜる。
鍋の中で泡が拍に合わせて弾け、リズムが広場を結ぶ。
奪われた匂いの代わりに、鍋の音が列を導いた。
子どもが真似て匙で椀を叩く。民が石段を掌で打つ。兵の楯が低く応える。
そして聖職者の鈴が“四拍目”を置いた瞬間、静香の幕が裂けた。
灰衣の男が顔を歪める。
俺は彼を見ず、鍋に向かった。
広場中の拍が一つになった刹那、湯の面が虹色にきらめく。
**交わり(神饌)**の頁が、体の内側でめくれた。
「――“食べ合え”。半分返し」
拍に合わせて、スープが受け渡される。
匂いが戻る。湯気が立つ。音が味になった。
静香の幕は人の拍に耐えられず、端から砂のように崩れて消えた。
◇
怒りの矛先を失った妨害者たちは、刃に手をかける。
だが〈等分〉が一昼夜の縛りをかけている。
先に刃は抜けない。
抜いた瞬間、舌が灰になる――それを彼らはさっき知っていた。
「座れ」
リウスの声は短いが、よく通った。
「座って、食え。座らないなら去れ。
今日から王都では、匙印の通らぬ塩は売れない」
灰衣の男が悔しげに舌打ちし、腰を落とした。
椀が差し出され、彼もまた半分返しを守った。
味が喉を通り、肩から戦の形が抜ける。
広場の中央、俺は契約粥の鍋を見張りながら、別の小鍋を据えた。
“鐘のスープ”だ。
干した果実を薄く刻み、麦芽とともに弱火に置く。
鐘楼に合図を送り、ゆっくり鳴らしてもらう。
金属の余韻が湯に落ち、拍と時間が味に混ざる。
飲めば、焦りがほどけ、嘘が喉で引っかかるスープ。
大合食の日の、都の心拍そのもの。
エリスが微笑み、モフが光核を短く瞬かせた。
サーシャは剣の代わりにお玉で子らの列を整え、レムは祈りの最後に「いただきます」を添える。
塩連合は計量台の上で塩を量り、連邦は荷車を軽くして町はずれの病院へ回した。
配る匙が、都市の毛細血管みたいに走る。
◇
日が傾くころ、境界の霧が外へ押し戻されていくのが見えた。
口を開けた都心の大きな口が、ようやく満ち足りて閉じる。
広場の石畳には、椀の輪と拍の余韻が残り、鐘は遠くで二度だけ鳴った。
「――やれたな」
リウスが横に来て、短く言った。
彼は木匙を指で弾き、音を一つだけ確かめる。
「“配る匙”を各区に置く。厨房隊は常備。衛味院と共同で滞りの監査簿を作る。
私は握らない。流れを見る」
「流れは味だ。詰まれば、焦げる」
笑い合った、その時だ。
人混みの向こうで、ひとさじの無音が生まれた。
音の糸が切れるほどの、冷たい静けさ。
灰衣の男でも、塩の商人でもない。
喪章のような黒い匙を胸に差した女が立っていた。
痩せた指、深い眼窩。
どこから見ても人だが、湯気が避ける。
女は椀を求めず、鍋を見た。
そして、乾いた声で言った。
「よくも、口を満たしたわね」
俺は一歩、鍋の前に出る。
モフが肩で光り、エリスとサーシャがさりげなく左右にまわった。リウスは音の糸を切らぬ距離で止まる。
「あなたは?」
「断食の主。……と言えば、わかるかしら」
レムが息を呑む。「古い伝承の……“空席”の巫女……?」
女は笑った――笑い声に味がない。
「満ち足りた街は、従わない。
だから私は空席を広げる。空席の前で人はひれ伏す。
あなたの鍋は、跪きを壊す」
彼女の足元で、石畳が乾く。
音が吸われ、湯気が細る。
広場で一日続いていた拍が、一つ、二つと落ちていく。
モフが震えた。
俺は鍋の柄を握り、息を整えた。
――最初の火の前で学んだこと。
奪われた入口があるなら、別の入口を開く。
匂いが奪われたら音を、
音が奪われるなら――触だ。
「皆、蓋に触れてくれ。木椀でも、隣の肩でもいい。半分返しの手を、もう一度」
ミナが最初に隣の老婆の手を握る。
兵が楯の縁に、聖が鐘の紐に、民が椀の木肌に。
ぬくもりが輪になる。
俺は低く、ほとんど喉で真名を呼んだ。
「――〈友餐〉」
交わりのさらに奥にある名。
食べさせるでも、食べるでもなく、食べ合う。
鍋の湯がふうっと膨らみ、拍のない静けさの中に、熱だけが残る。
指先から掌へ、掌から腕へ、温度が移る。
音の代わりに、温度が約束を運び始めた。
女の目がわずかに揺れた。
彼女の黒い匙が、胸の上で冷えを失う。
エリスが一歩出て、静かに言った。
「空席は、誰かの席よ。
私たちは立って待つだけじゃない。席を持ち寄る」
「持ち寄る……?」
女の声に初めて味が混じった。
リウスが木匙を掲げ、短く宣言する。
「明朝――王都の空席簿を作る。
空いた席は罪ではない。合図だ。
厨房隊は席を埋め、衛味院は水を運び、配る匙が道をつくる。
空席の主よ、跪きの支配は今日で終わる」
女は答えず、黒い匙を胸から外した。
音がゆっくり戻る。
湯気がふたたび立ち、広場に拍が戻る。
「……明日も沸くなら、また来る」
それだけ言って、女は人混みに紛れた。
残ったのは、黒い匙。
触れれば、ひやりとした名残りがある。
俺はそれを鍋の蓋と木匙の間に挟み、そっとしまった。
ミナが袖を引く。「終わった?」
「まだだ。最終回の鍋が残ってる」
モフが肩で光を弾ませる。
広場の端で、鐘が三つ鳴った。
都の心拍は、確かに整っている。
鍋は扉、火は鍵、唾液は契約。
匙は道。
そして――席は、約束だ。
次回・最終話:
第10話 最後の一椀—空席の主へ
(王都の空席簿運用が始まる朝、断食の主が再臨。“友餐”の真名で都市全体を一つの食卓に束ね、空席そのものを“席”に変える。カイが選ぶ最後の配膳と、モフの最終進化。そして「鍋は扉…」の言葉に続く、新しい一文が生まれる)




