第7話 契約の匙
匙の先で、湯がひとつ泡を割った。
参事官リウスの馬が鼻を鳴らし、彼の指が手綱を締める。背後で槍の穂先が揃う。教会旗と王国旗が、空腹の風に同じようにはためいた。
「参事官。まずは一口」
俺は差し出したまま待った。
沈黙が砂のように積もっていく。民衆の列の端で、ミナが両手で椀を抱え、兵の金具をじっと見ている。
「……感傷に国家は委ねられん」
リウスが吐き捨て、馬を前へ出す。
その瞬間、鍋の底で二つ目の泡が弾けた。モフの光核が短く明滅する。俺は小さく頷き、声を張った。
「ここで“匙割りの儀”を行う。
――食卓に座りたい者は、まず自分の口糧をひとかけら鍋に入れろ。兵は乾パン、聖職者は聖餅、市場人は干果、旅人は塩。こちらは境界の露と麦を出す。等しく混ぜ、等しく分ける」
どよめきが広がる。
サーシャが剣を鞘に収め、一歩、鍋の前に立った。「王国騎士、口糧を供す」と乾パンを割って落とす。レムも続いた。「衛味院見習い、聖餅を半身」。民が干果を、行商が塩を――控えめに、しかし次々と。
リウスの部隊は動かない。彼は顔を傾け、薄く笑った。「儀式遊びか」
「遊びかどうかは、口が決める」
俺は鍋をかき混ぜ、風を呼んで火を撫でる。境界の霧がわずかに鍋の縁へ寄り、露が一滴、湯面に落ちた。
体内の“頁”が開く。金の文字がまぶたの裏で走った。
『契約粥:真名〈等分〉
異なるものを等しく混ぜ、等しく分ける。
効果:食した者は“先に刃を抜けない”。言は“重み”を失えば灰味となる。持続一昼夜』
俺は低く呼ぶ。「――〈等分〉」
スープの色が淡く変わる。透明の中に、麦の白、果の薄紅、塩の光、聖餅の静かな粒子が浮かぶ。モフが鍋底に薄く広がり、味を均した。
「参事官。あなたも、ひとかけらを」
俺が言うと、列の後ろで兵がざわつく。リウスは鞍上でしばらく黙り、やがて革袋から固い乾肉を取り出した。
その指先が、一瞬、不自然に止まる。指輪の裏に何かが仕込まれている。白い粉。モフが“ぴっ”と音もなく跳び、粉を舐め取り、湯に落とす。湯気が甘く、すぐに苦くなり、そして穏やかになった。
リウスの眉がわずかに動いた。
俺は見なかったことにして、鍋を満たした。
「では、“等分”。――まずは子どもから」
ミナに椀を渡す。ミナは両手で受け取り、湯気に目を細めた。「あったかい」
隣の老人に半分を分ける。老人は微笑み、兵を見た。
サーシャが兵に、レムが修道士に、民が見知らぬ相手に――椀は往復し、匙は半分で返ってくる。人と人の間に、湯気の橋が架かる。
最後に、俺はリウスに椀を差し出した。
彼は躊躇のあと、わずかに身を乗り出し、匙でひとすくい口に含んだ。
――次の瞬間、彼の喉が止まった。
そして、小さく咳き込み、目を瞑る。
「どうしました、参事官」
俺が問いかけるより早く、彼はふっと苦笑した。
言葉を出そうとして、ひとつ、飲み込む。もう一度口を開き、飲み込む。
灰の味――嘘が“重み”を持たない時の味。〈等分〉の効き目だ。
「……私は、“掌握するため”に来た」
吐き出すように、彼は言った。
兵の列がどよめく。教会旗の影が揺れた。
リウスは続ける。今度は少し、別の重みで。
「十七のとき、飢饉があった。
役人は権限がないと倉を開けず、祈祷師は兆しが降りるのを待ち、我が妹は、待つ間に死んだ。
“誰かが即座に握れば助かった”。……それが私の正しさだ」
砂が鳴る。風が止む。
彼の声は硬い石のようだったが、その表面に、ほんの少し水がしみ込んでいた。
「参事官」
俺は椀を自分の口に運び、一口すすった。
麦の甘さが喉を撫でる。塩が過去の傷を浮かべて沈める。
そして言った。
「あなたの“正しさ”は、急ぎの火だ。
火は必要だ。ただ、鍋がなければ焦がす。
――“握る手”ではなく、“配る匙”をあなたに持ってほしい」
リウスの目が細くなる。「配る……匙?」
「厨房隊はまだ名前だけだ。王も教会も、仕組みを持っていない。
なら、今ここで、模式を示す。
“等分”を通った食は、兵と聖と民の三印で運ぶ――匙印だ。
『兵は護り、聖は祈り、民は受け取る』。
その道を監査する役が要る。あなたがやれ。握るのではなく、滞らせないために」
レムが息を呑み、サーシャが口元で笑う。
ミナはよくわからないという顔で、もう一口、匙を運んだ。
リウスは椀を見た。
鍋の湯気が彼の頬を柔らかく洗う。
やがて、彼は小さく肩で笑った。
「……“配る匙”か。腹の足しにならん比喩だな」
「比喩じゃない。現物だ」
俺は腰袋から小さな木匙を取り出した。
柄の端に、麦粒・十字・盾の三刻印を焼いてある。
ひとつをリウスに渡し、ひとつをサーシャに、もうひとつをレムに。最後の一本をミナに。
「これが通行の符だ。
この匙を持つ者は、まず“分ける”ことを誓う。
刃より先に、匙を上げる」
沈黙ののち、リウスは木匙をつまみ、掌で重さを量った。
荒い息がひとつ、彼の胸から抜ける。
「……一昼夜、試してみよう。
“等分”の効き目がある間だけだ」
言い終えて、彼は馬から降りた。
槍の穂先が、ざわ、と下がる。教会旗がひとつ、地に置かれる。
最初の器が兵へ、次の器が修道士へ、次の器が民へ――匙はぐるりと回り、火の輪ができた。
境界の霧が低く笑う。
鍋の底から、微かな声。
『よく混ざった。
わけへだてず、わけあった。
――扉は、少し開いた』
◇
陽が傾く前、隊列の端で別の砂煙が上がった。
布に覆われた荷車の群れ。
旗は掲げない。にもかかわらず、独特の“匂い”があった。
塩、だ。
だが、ただの塩ではない――薬臭い、湿った重み。
サーシャが眉をひそめる。「塩組合連合の印……勝手に動いたな」
荷車の先頭から、恰幅のいい男が現れる。
笑顔は柔らかいが、目は乾いている。
「いやあ、いい匂いだ。
王都から“善意”で来ましたぞ。塩は命。値も手間も忘れ、供出しましょう」
リウスがぎょろりと男を見る。
彼は小さく首を振った。
俺は鍋の縁を撫で、スープをひとすくい、男に差し出した。
「どうぞ。“等分”の席へ」
「おお、ありがたい。だが私は塩を運ぶ身、時間が――」
男は器を受け取り、唇に触れさせた。
瞬間、わずかに顔をしかめ、すぐ笑顔に戻す。
――灰の味。
〈等分〉は嘘を軽くする。言葉が舌先で滑った。
「値も手間も忘れる、ね」
俺はゆっくり言った。
男の背後で、荷車の布から白がこぼれる。濡れた塩――水を含んで重く見せ、数量をごまかす古い手だ。
サーシャが半歩前に出る。レムが杖を握る。
リウスが木匙を見、そして男を見た。
彼はほんの一瞬、苦い口をした。
「塩の連合は、王都の倉で“私利の等分”をしてきた。
……それは今日ここで終わる。荷を開けろ。
匙印の通らぬ塩は、境界では売れん」
男の笑顔が、一枚ずるりと剥がれた。
荷車の列で、わずかなざわめきと舌打ち。
だが兵と修道士と民の間に、匙の輪ができている。槍の影より、湯気の影のほうが濃い。
モフが肩で囁く。『主。鍋、もう一ついる』
「わかってる」
俺は鍋をもう一つ据え、塩だけで作る透明な“湯”を立てた。
塩は命。だからこそ、嘘は混ぜない。
男の荷から適正な塩を、民の手で測り取り、兵の手で護り、聖の手で祈って――匙印を押す。
“配る匙”は、こうして形になっていく。
◇
宵。
境界の風は甘く、焚き火は高く。
ミナが木匙を首から下げて眠り、レムが祈りの文句に「味」の字をこっそり足し、サーシャが剣ではなく鍋蓋を膝に置く。
リウスは火の向こうで黙ってスープをすすり、時おり、木匙を指で弾いて確かめる。
「参事官」
俺が声をかけると、彼は顎で応じた。
湯気が間に漂う。
「明日、王都に戻ったら――厨房隊を本当に作る。
あなたの部署から人を回せ。机上じゃなく、鍋のそばに座れる連中を」
「……“握る”のではなく、“滞らせない”。監査は俺がする」
彼は木匙を胸に差し、立ち上がった。
空には、塩のような星がばらまかれている。
モフが俺の肩で小さく鳴いた。
『主。今日の契約、よく煮えた』
「ああ。……鍋は扉、火は鍵、唾液は契約。
――そして、匙は道具だ。これからは道具の数だけ道ができる」
境界の向こうで、静かに何かが笑った。
食卓の真ん中で、世界が、低く、いい音で沸いていた。




