第5話 神饌を求める者
夜の鐘が三度鳴ったあと、王都の風向きが変わった。
市場のパン屋が夜通し火を絶やさず、酒場では“カイのスープ”と呼ばれる料理が流行し始めた。
だがその一方で――教会は沈黙を守り続けていた。
「神の名を借りずして“祝福の火”を起こす料理人がいる」
そんな噂は、聖職者にとって恐怖に等しかった。
そしてその恐怖が、俺の名を呼ぶ。
◇
翌朝、王城の裏庭でモフと野菜を洗っていたところへ、王の従者が走ってきた。
「カイ殿! 陛下より緊急の勅命です!」
「また宴の準備か?」
「いえ……“聖堂の試練”への随行命令。教会が陛下に申し入れました。――“真の神饌”を作れるかどうか、神前で証明せよ、と」
モフがぷるんと震えた。
冷水の中で、透明な体がわずかに光を帯びる。
“神饌”。
それは神へ供える料理の総称。
食べた者の魂すら浄化すると言われる伝説の料理。
だが、古書の最後のページに記されていた〈神饌〉という名が、まさか現実に教会側の口から出るとは。
「――面白い。受けよう」
俺は包丁を拭き、王の従者に頷いた。
教会の火が俺を試すというなら、こちらも“味”で答えるしかない。
◇
数日後。
聖堂は王都の北端、千年を経た白の丘にそびえていた。
大理石の床には無数の祈りの痕跡、香の煙が漂う。
その中央に、祭壇と巨大な調理台――“聖なる厨房”があった。
「異端の料理人カイ。汝の手に宿る火が、神の御心か、あるいは魔か。ここで裁く」
荘厳な声を響かせたのは、教皇代理の老司祭。
彼の後ろには、十数名の司祭と修道女たちが並び、厳粛な空気が流れている。
「調理に用いる火、道具、食材――すべて聖堂のものを使え。己の魔導書は封じる」
古書を取り上げられ、封印の鎖を巻かれる。
それでも、俺の中には火があった。
鍋も、火も、手が覚えている。
「わかりました。火は借り物でも、味は自分のものです」
老司祭が眉をひそめる。
傍らの修道女が小さく十字を切った。
◇
調理台に並ぶのは、白い麦、聖果、祝福水、そして“神鳥”と呼ばれる小さな鳩のような肉。
どれも純粋すぎて、味の個性がない。
――神饌は、混ぜてはならぬ純粋の象徴。
だが、俺は知っている。
「純粋」は人を飢えさせる。
「混ざり合う」ことで初めて、命の味になるのだ。
「モフ、準備はいいか」
モフがぷるんと跳ね、光を放った。
封印されても、奴は俺の手の届く場所にいる。
火を灯す代わりに、モフの体内に微弱な光熱を走らせ、鍋の底に沿わせた。
水を注ぐ。
麦が踊る。
果実を刻むと、甘い香りが空気に溶けた。
「――味よ、祈りを超えろ」
低く呟く。
祈りとは願い、味とは結果。
願いだけでは誰も救えない。
ゆっくりとかき混ぜ、麦の甘味が溶け出す瞬間、指先に熱が走った。
封印されたはずの古書のページが、光の粒となって宙に浮かぶ。
『神饌の真名――〈交わり〉。
異なるものを混ぜ、調和せし者こそ、神に最も近い。』
鍋の中で、麦と果実と肉が一体になった。
透明なスープは、虹色に輝き始める。
◇
完成した瞬間、聖堂全体に香が広がった。
司祭たちがざわめき、修道女の一人が涙を流す。
「……懐かしい匂い。母が作ってくれた、初めてのパンの香りに似ている」
彼女の声が引き金となり、老司祭もまた匙を手に取った。
一口。
瞳が震える。
「甘い……が、苦くもある。生きるという味か」
「それが“神饌”です」
俺は頭を下げた。
「神のために作る料理などありません。
人のために作る料理が、結果として神を満たす――それが本当の火です」
沈黙。
そして、聖堂の鐘が鳴った。
老司祭は膝を折り、俺の前に立った。
「神は言葉ではなく、味で答えた……。
料理人カイ、汝の火を“真なる祝福”と認めよう」
◇
その夜。
俺は丘の上で月を見上げ、モフを掌に乗せた。
モフの体が淡い金色に輝き、柔らかく形を変える。
丸い体の中心に、透き通る光核が生まれた。
「お前……進化したのか」
モフが小さく鳴いた。
古書――いや、今はもう封印の鎖が溶け、静かに頁を開いた。
『調理核スライム:
神饌を作りし者に寄り添い、魂の火を媒介する存在。
主が抱く想いを“味”に変える。』
「……頼もしいな、モフ」
俺は夜風の中、包丁を月光にかざした。
これから作るのは、神でも魔でもない――“人の未来”の料理だ。
火がまた、静かに燃え上がる。




